中津川から馬籠峠《まごめとうげ》を越え、木曾《きそ》街道を江戸へと取り、ひとまず江戸両国の十一屋に落ち着き、あの旅籠屋《はたごや》を足だまりとして、それから横浜へ出ようとした。木曾出身で世話好きな十一屋の隠居は、郷里に縁故の深い美濃衆のためにも何かにつけて旅の便宜を計ろうとするような人だ。この隠居は以前に馬籠本陣の半蔵を泊め、今また寛斎の宿をして、弟子《でし》と師匠とを江戸に迎えるということは、これも何かの御縁であろうなどと話した末に言った。
「皆さまは神奈川《かながわ》泊まりのつもりでお出かけになりませんと、浜にはまだ旅籠屋《はたごや》もございますまいよ。神奈川の牡丹屋《ぼたんや》、あそこは古くからやっております。牡丹屋なら一番安心でございますぞ。」
こんな隠居の話を聞いて、やがて一行四人のものは東海道筋を横浜へ向かった。
横浜もさみしかった。地勢としての横浜は神奈川より岸深《きしぶか》で、海岸にはすでに波止場《はとば》も築《つ》き出《だ》されていたが、いかに言ってもまだ開けたばかりの港だ。たまたま入港する外国の貿易船があっても、船員はいずれも船へ帰って寝るか、さもなければ神奈川まで来て泊まった。下田を去って神奈川に移った英国、米国、仏国、オランダ等の諸領事はさみしい横浜よりもにぎやかな東海道筋をよろこび、いったん仮寓《かぐう》と定めた本覚寺その他の寺院から動こうともしない。こんな事情をみて取った寛斎らは、やはり十一屋の隠居から教えられたとおりに、神奈川の牡丹屋に足をとどめることにした。
この出稼《でかせ》ぎは、美濃から来た四人のものにとって、かなりの冒険とも思われた。中津川から神奈川まで、百里に近い道を馬の背で生糸の材料を運ぶということすら容易でない。おまけに、相手は、全く知らない異国の人たちだ。
当時、異国のことについては、実にいろいろな話が残っている。ある異人が以前に日本へ来た時、この国の女を見て懸想《けそう》した。異人はその女をほしいと言ったが、許されなかった。そんなら女の髪の毛を三本だけくれろと言うので、しかたなしに三本与えた。ところが、どうやらその女は異人の魔法にでもかかったかして、とうとう異国へ往《い》ってしまったという。その次ぎに来た異人がまた、女の髪の毛を三本と言い出したから、今度は篩《ふるい》の毛を三本抜いて与えた。驚くべきことには、その篩《ふるい》が天に登って、異国へ飛んで往《い》ったともいう。これを見たものはびっくりして、これは必ず切支丹《キリシタン》に相違ないと言って、皆大いに恐懼《おそれ》を抱《いだ》いたとの話もある。
異国に対する無知が、およそいかなる程度のものであったかは、黒船から流れ着いた空壜《あきびん》の話にも残っている。アメリカのペリイが来航当時のこと、多くの船員を乗せた軍艦からは空壜を海の中へ投げすてた。その投げすてられたものが風のない時は、底の方が重く口ばかり海面に出ていて、水がその中にはいるから、浪《なみ》のまにまに自然と海岸に漂着する。それを拾って黙って家に持ちかえるものは罰せられた。だから、こういうものが流れ着いたと言って、一々届け出なければならない。その時の役人の言葉に、これは先方で毒を入れて置くものに相違ない、もしこの中に毒がはいっていたら大変だ、さもなければこんなものを流す道理もない、きっと毒が盛ってあって日本人を苦しめようという軍略であろう、ついては一か所捨て置く場所を設ける、心得違いのものがあって万一届け出ない場合があったら直ちに召し捕《と》るとのきびしい触れを出したものだ。そこであっちの村から五本、こっちの村から三本、と続々届け出るものがある。役人らは毎日それを取り上げ、一軒の空屋《あきや》を借り受け、そのなかに積んで置いて、厳重な戸締まりをした。それが異人らの日常飲用する酒の空壜であるということすらわからなかったという。
すべてこの調子だ。籐椅子《とういす》が風のために漂着したと言っては不思議がり、寝椅子が一個漂着したと言っては不思議がった。ペリイ出帆の翌日、アメリカ側から幕府への献上物の中には、壜詰《びんづめ》、罐詰《かんづめ》、その他の箱詰があり、浦賀奉行への贈り物があったが、これらの品々は江戸へ伺い済みの上で、浦賀の波止場で焼きすてたくらいだ。後日の祟《たた》りをおそれたのだ。実際、寛斎が中津川の商人について神奈川へ出て来たのは、そういう黒船の恐怖からまだ離れ切ることができなかったころである。
ちょうど、時は安政大獄《あんせいのたいごく》のあとにあたる。彦根《ひこね》の城主、井伊掃部頭直弼《いいかもんのかみなおすけ》が大老の職に就《つ》いたころは、どれほどの暗闘と反目とがそこにあったかしれない。彦根と水戸。紀州と一橋《ひとつばし》。幕府内の有司と有司。その結果は神奈川条約調印の是非と、徳川世子の継嗣問題とにからんであらわれて来た。しかもそれらは大きな抗争の序幕であったに過ぎぬ。井伊大老の期するところは沸騰した国論の統一にあったろうけれど、彼は世にもまれに見る闘士として政治の舞台にあらわれて来た。いわゆる反対派の張本人なる水戸の御隠居(烈公)を初め、それに荷担した大名有司らが謹慎や蟄居《ちっきょ》を命ぜられたばかりでなく、強い圧迫は京都を中心に渦巻《うずま》き始めた新興勢力の苗床《なえどこ》にまで及んで行った。京都にある鷹司《たかつかさ》、近衛《このえ》、三条の三公は落飾《らくしょく》を迫られ、その他の公卿《くげ》たちの関東反対の嫌疑《けんぎ》のかかったものは皆謹慎を命ぜられた。老女と言われる身で、囚人として江戸に護送されたものもある。民間にある志士、浪人、百姓、町人などの捕縛と厳刑とが続きに続いた。一人《ひとり》は切腹に、一人は獄門に、五人は死罪に、七人は遠島に、十一人は追放に、九人は押込《おしこめ》に、四人は所払《ところばら》いに、三人は手鎖《てじょう》に、七人は無構《かまいなし》に、三人は急度叱《きっとしか》りに。勤王攘夷《きんのうじょうい》の急先鋒《きゅうせんぽう》と目ざされた若狭《わかさ》の梅田雲浜《うめだうんぴん》のように、獄中で病死したものが別に六人もある。水戸の安島帯刀《あじまたてわき》、越前《えちぜん》の橋本|左内《さない》、京都の頼鴨崖《らいおうがい》、長州の吉田松陰《よしだしょういん》なぞは、いずれも恨みをのんで倒れて行った人たちである。
こんな周囲の空気の中で、だれもがまだ容易に信用しようともしない外国人の中へ、中津川の商人らは飛び込んで来た。神奈川条約はすでに立派に調印されて、外国貿易は公然の沙汰《さた》となっている。生糸でも売り込もうとするものにとって、なんの憚《はばか》るところはない。寛永十年以来の厳禁とされた五百石以上の大船を造ることも許されて、海はもはや事実において解放されている。遠い昔の航海者の夢は、二百何十年の長い鎖国の後に、また生き還《かえ》るような新しい機運に向かって来ている。
寛斎がこの出稼ぎに来たころは六十に近かった。田舎《いなか》医者としての彼の漢方での治療の届くかぎりどんな患者でも診《み》ないことはなかったが、中にも眼科を得意にし、中津川の町よりも近在回りを主にして、病家から頼まれれば峠越しに馬籠《まごめ》へも行き、三留野《みどの》へも行き、蘭《あららぎ》、広瀬から清内路《せいないじ》の奥までも行き、余暇さえあれば本を読み、弟子《でし》を教えた。学問のある奇人のように言われて来たこの寛斎が医者の玄関も中津川では張り切れなくなったと言って、信州|飯田《いいだ》の在に隠退しようと考えるようになったのも、つい最近のことである。今度一緒に来た万屋《よろずや》の主人は日ごろ彼が世話になる病院先のことであり、生糸売り込みもよほどの高に上ろうとの見込みから、彼の力にできるだけの手伝いもして、その利得を分けてもらうという約束で来ている。彼ももう年をとって、何かにつけて心細かった。最後の「隠れ家《が》」に余生を送るよりほかの願いもなかった。
さしあたり寛斎の仕事は、安兵衛らを助けて横浜貿易の事情をさぐることであった。新参の西洋人は内地の人を引きつけるために、なんでも買い込む。どうせ初めは金を捨てなければいけないくらいのことは外国商人も承知していて、気に入らないものでも買って見せる。江戸の食い詰め者で、二進《にっち》も三進《さっち》も首の回らぬ連中なぞは、一つ新開地の横浜へでも行って見ようという気分で出かけて来る時だ。そういう連中が持って来るような、二文か三文の資本《もとで》で仕入れられるおもちゃ[#「おもちゃ」は底本では「おもちや」]の類《たぐい》でさえ西洋人にはめずらしがられた。徳川大名の置き物とさえ言えば、仏壇の蝋燭立《ろうそくだ》てを造りかえたような、いかがわしい骨董品《こっとうひん》でさえ二両の余に売れたという。まだ内地の生糸商人はいくらも入り込んでいない。万屋《よろずや》安兵衛、大和屋李助《やまとやりすけ》なぞにとって、これは見のがせない機会だった。
だんだん様子がわかって来た。神奈川在留の西洋人は諸国領事から書記まで入れて、およそ四十人は来ていることがわかった。紹介してもらおうとさえ思えば、適当な売り込み商の得られることもわかった。おぼつかないながらも用を達《た》すぐらいの通弁は勤まるというものも出て来た。
やがて寛斎は安兵衛らと連れだって、一人の西洋人を見に行った。二十戸ばかりの異人屋敷、最初の居留地とは名ばかりのように隔離した一区域が神奈川台の上にある。そこに住む英国人で、ケウスキイという男は、横浜の海岸通りに新しい商館でも建てられるまで神奈川に仮住居《かりずまい》するという貿易商であった。初めて寛斎の目に映るその西洋人は、羅紗《らしゃ》の丸羽織を着、同じ羅紗の股引《ももひき》をはき、羽織の紐《ひも》のかわりに釦《ぼたん》を用いている。手まわりの小道具一切を衣裳《いしょう》のかくしにいれているのも、異国の風俗だ。たとえば手ぬぐいは羽織のかくしに入れ、金入れは股引《ももひき》のかくしに入れ、時計は胴着のかくしに入れて鎖を釦《ぼたん》の穴に掛けるというふうに。履物《はきもの》も変わっている。獣の皮で造った靴《くつ》が日本で言って見るなら雪駄《せった》の代わりだ。
安兵衛らの持って行って見せた生糸の見本は、ひどくケウスキイを驚かした。これほど立派な品ならどれほどでも買おうと言うらしいが、先方の言うことは燕《つばめ》のように早口で、こまかいことまでは通弁にもよくわからない。ケウスキイはまた、安兵衛らの結い立ての髷《まげ》や、すっかり頭を円《まる》めている寛斎の医者らしい風俗をめずらしそうにながめながら、煙草《たばこ》なぞをそこへ取り出して、客にも勧めれば自分でもうまそうに服《の》んで見せた。寛斎が近く行って見たその西洋人は、髪の毛色こそ違い、眸《ひとみ》の色こそ違っているが、黒船の連想と共に起こって来るような恐ろしいものでもない。幽霊でもなく、化け物でもない。やはり血の気の通《かよ》っている同じ人間の仲間だ。
「糸目百匁あれば、一両で引き取ろうと言っています。」
この売り込み商の言葉に、安兵衛らは力を得た。百匁一両は前代未聞の相場であった。
早い貿易の様子もわかり、糸の値段もわかった。この上は一日も早く神奈川を引き揚げ、来る年の春までにはできるだけ多くの糸の仕入れもして来よう。このことに安兵衛と李助《りすけ》は一致した。二人《ふたり》が見本のつもりで持って来て、牡丹屋《ぼたんや》の亭主《ていしゅ》に預かってもらった糸まで約束ができて、その荷だけでも一個につき百三十両に売れた。
「宮川先生、あなただけは神奈川に残っていてもらいますぜ。」
と安兵衛は言ったが、それはもとより寛斎も承知の上であった。
「先生も一人《ひとり》で、鼠《ねずみ》にでも引かれないようにしてください。」
手代の嘉吉《かきち》は嘉吉らしいことを言って、置いて行くあとの事を堅く寛斎に託した。中津川と
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