て、山上と姓を改めたともありますね。昔はこの辺を公郷《くごう》の浦とも、大田津とも言ったそうです。この半島には油壺《あぶらつぼ》というところがありますが、三浦|道寸《どうすん》父子の墓石なぞもあそこに残っていますよ。」
やがて半蔵らはこの七郎左衛門の案内で、茶室の方へ通う庭の小径《こみち》のところへ出た。裏山つづきの稲荷《いなり》の祠《ほこら》などが横手に見える庭石の間を登って、築山《つきやま》をめぐる位置まで出たころに、寿平次は半蔵を顧みて言った。
「驚きましたねえ。この山上の二代目の先祖は楠家《くすのきけ》から養子に来ていますよ。毎年正月には楠公《なんこう》の肖像を床の間に掛けて、鏡餅《かがみもち》や神酒《みき》を供えるというじゃありませんか。」
「わたしたちの家が古いと思ったら、ここの家はもっと古い。」
松林の間に海の見える裏山の茶室に席を移してから、七郎左衛門は浦賀の番所通いの話などを半蔵らの前で始めた。二千人の水兵を載せたアメリカの艦隊が初めて浦賀に入港した当時のことがそれからそれと引き出された。
七郎左衛門の話はくわしい。彼は水師《すいし》提督ペリイの座乗《ざじょう》した三本マストの旗艦ミスシッピイ号をも目撃した人である。浦賀の奉行《ぶぎょう》がそれと知った時は、すぐに要所要所を堅め、ここは異国の人と応接すべき場所でない、アメリカ大統領の書翰《しょかん》を呈したいとあるなら長崎の方へ行けと諭《さと》した。けれども、アメリカが日本の開国を促そうとしたは決して一朝一夕のことではないらしい。先方は断然たる決心をもって迫って来た。もし浦賀で国書を受け取ることができないなら、江戸へ行こう。それでも要領を得ないなら、艦隊は自由行動を執ろう。この脅迫の影響は実に大きかった。のみならずペリイは測量艇隊を放って浦賀付近の港内を測量し、さらに内海に向かわしめ、軍艦がそれを掩護《えんご》して観音崎《かんのんざき》から走水《はしりみず》の付近にまで達した。浦賀奉行とペリイとの久里《くり》が浜《はま》での会見がそれから開始された。海岸に幕を張り、弓矢、鉄砲を用意し、五千人からの護衛の武士が出て万一の場合に具《そな》えた。なにしろ先方は二千人からの水兵が上陸して、列をつくって進退する。軍艦から打ち出す大筒《おおづつ》の礼砲は近海から遠い山々までもとどろき渡る。かねての約束のとおり、奉行は一言をも発しないで国書だけを受け取って、ともかくも会見の式を終わった。その間|半時《はんとき》ばかり。ペリイは大いに軍容を示して、日本人の高い鼻をへし折ろうとでも考えたものか、脅迫がましい態度がそれからも続きに続いた。全艦隊は小柴沖《こしばおき》から羽田《はねだ》沖まで進み、はるかに江戸の市街を望み見るところまでも乗り入れて、それから退帆《たいはん》のおりに、万一国書を受けつけないなら非常手段に訴えるという言葉を残した。そればかりではない。日本で飽くまで開国を肯《がえん》じないなら、武力に訴えてもその態度を改めさせなければならぬ、日本人はよろしく国法によって防戦するがいい、米国は必ず勝って見せる、ついては二本の白旗を贈る、戦《いくさ》に敗《ま》けて講和を求める時にそれを掲げて来るなら、その時は砲撃を中止するであろうとの言葉を残した。
「わたしはアメリカの船を見ました。二度目にやって来た時は九|艘《そう》も見ました。さよう、二度目の時なぞは三か月もあの沖合いに掛かっていましたよ。そりゃ、あなた、日本の国情がどうあろうと、こっちの言い分が通るまでは動かないというふうに――槓杆《てこ》でも動かない巌《いわ》のような権幕《けんまく》で。」
これらの七郎左衛門の話は、半蔵にも、寿平次にも、容易ならぬ時代に際会したことを悟らせた。当時の青年として、この不安はまた当然覚悟すべきものであることを思わせた。同時に、この仙郷《せんきょう》のような三浦半島の漁村へも、そうした世界の新しい暗い潮《うしお》が遠慮なく打ち寄せて来ていることを思わせた。
「時に、お話はお話だ。わたしの茶も怪しいものですが、せっかくおいでくだすったのですから、一服立てて進ぜたい。」
そう言いながら、七郎左衛門はその茶室にある炉の前にすわり直した。そこにある低い天井も、簡素な壁も、静かな窓も、海の方から聞こえて来る濤《なみ》の音も、すべてはこの山上の主人がたましいを落ち着けるためにあるかのように見える。
「なにしろ青山さんたちは、お二人《ふたり》ともまだ若いのがうらやましい。これからの時世はあなたがたを待っていますよ。」
七郎左衛門は手にした袱紗《ふくさ》で夏目の蓋《ふた》を掃き浄《きよ》めながら言った。匂《にお》いこぼれるような青い挽茶《ひきちゃ》の粉は茶碗《ちゃわん》に移された。湯と水とに対する親しみの力、貴賤《きせん》貧富《ひんぷ》の外にあるむなしさ、渋さと甘さと濃さと淡さとを一つの茶碗に盛り入れて、泡《あわ》も汁《しる》も一緒に溶け合ったような高い茶の香気をかいで見た時は、半蔵も寿平次もしばらくそこに旅の身を忘れていた。
母屋《もや》の方からは風呂《ふろ》の沸いたことを知らせに来る男があった。七郎左衛門は起《た》ちがけに、その男と寿平次とを見比べながら、
「妻籠《つまご》の青山さんはもうお忘れになったかもしれない。」
「へい、手前は主人のお供をいたしまして、木曾のお宅へ一晩泊めていただいたものでございますよ。」
その男は手をもみもみ言った。
夕日は松林の間に満ちて来た。海も光った。いずれこの夕焼けでは翌朝も晴れだろう、一同海岸に出て遊ぼう、網でも引かせよう、ゆっくり三浦に足を休めて行ってくれ、そんなことを言って客をもてなそうとする七郎左衛門が言葉のはしにも古里の人の心がこもっていた。まったく、木曾の山村を開拓した青山家の祖先にとっては、ここが古里なのだ。裏山の崖《がけ》の下の方には、岸へ押し寄せ押し寄せする潮が全世界をめぐる生命の脈搏《みゃくはく》のように、間《ま》をおいては響き砕けていた。半蔵も寿平次もその裏山の上の位置から去りかねて、海を望みながら松林の間に立ちつくした。
五
異国――アメリカをもロシヤをも含めた広い意味でのヨーロッパ――シナでもなく朝鮮でもなくインドでもない異国に対するこの国の人の最初の印象は、決して後世から想像するような好ましいものではなかった。
もし当時のいわゆる黒船、あるいは唐人船《とうじんぶね》が、二本の白旗をこの国の海岸に残して置いて行くような人を乗せて来なかったなら。もしその黒船が力に訴えても開国を促そうとするような人でなしに、真に平和修好の使節を乗せて来たなら。古来この国に住むものは、そう異邦から渡って来た人たちを毛ぎらいする民族でもなかった。むしろそれらの人たちをよろこび迎えた早い歴史をさえ持っていた。シナ、インドは知らないこと、この日本の関するかぎり、もし真に相互の国際の義務を教えようとして渡来した人があったなら、よろこんでそれを学ぼうとしたに違いない。また、これほど深刻な国内の動揺と狼狽《ろうばい》と混乱とを経験せずに済んだかもしれない。不幸にも、ヨーロッパ人は世界にわたっての土地征服者として、まずこの島国の人の目に映った。「人間の組織的な意志の壮大な権化《ごんげ》、人間の合理的な利益のためにはいかなる原始的な自然の状態にあるものをも克服し尽くそうというごとき勇猛な目的を決定するもの」――それが黒船であったのだ。
当時この国には、紅毛《こうもう》という言葉があり、毛唐人《けとうじん》という言葉があった。当時のそれは割合に軽い意味での毛色の変わった異国の人というほどにとどまる。一種のおかし味をまじえた言葉でさえある。黒船の載せた外国人があべこべにこの国の住民を想像して来たように、決してそれほど未開な野蛮人をば意味しなかった。
しかし、この国には嘉永年代よりずっと以前に、すでにヨーロッパ人が渡って来て、二百年も交易を続けていたことを忘れてはならない。この先着のヨーロッパ人の中にはポルトガル[#「ポルトガル」はママ]人もあったが、主としてオランダ人であった。彼らオランダ人は長崎|蘭医《らんい》の大家として尊敬されたシイボルトのような人ばかりではなかったのだ。彼らがこの国に来て交易からおさめた利得は、年額の小判《こばん》十五万両ではきくまいという。諸種の毛織り物、羅紗《らしゃ》、精巧な「びいどろ」、「ぎやまん」の器《うつわ》、その他の天産および人工に係る珍品をヨーロッパからもシャムからも東インド地方からも輸入して来て、この国の人に取り入るためにいかなる機会をも見のがさなかったのが彼らだ。自由な貿易商としてよりも役人の奴隷《どれい》扱いに甘んじたのが彼らだ。港の遊女でも差し向ければ、異人はどうにでもなる、そういう考えを役人に抱《いだ》かせたのも、また、その先例を開かせたのも彼らだ。
このオランダ人がまず日本を世界に吹聴《ふいちょう》した。事実、オランダ人はこの国に向かっても、ヨーロッパの紹介者であり、通訳者であり、ヨーロッパ人同志としての激しい競争者でもあった。アメリカのペリイが持参した国書にすら、一通の蘭訳を添えて来たくらいだ。この国の最初の外交談判もおもに蘭語によってなされた。すべてはこのとおりオランダというものを通してであって、直接にアメリカ人と会話を交えうるものはなかったのである。
この言葉の不通だ。まして東西道徳の標準の相違だ。どうして先方の話すこともよくわからないものが、アメリカ人、ロシヤ人、イギリス人とオランダ人とを区別し得られよう。長崎に、浦賀に、下田に、続々到着する新しい外国人が、これまでのオランダ人の執った態度をかなぐり捨てようとは、どうして知ろう。全く対等の位置に立って、一国を代表する使節の威厳を損ずることなしに、重い使命を果たしに来たとは、どうして知ろう。この国のものは、ヨーロッパそのものを静かによく見うるようなまず最初の機会を失った。迫り来るものは、誠意のほども測りがたい全くの未知数であった。求めらるるものは幾世紀もかかって積み重ね積み重ねして来たこの国の文化ではなくて、この島に産する硫黄《いおう》、樟脳《しょうのう》、生糸《きいと》、それから金銀の類《たぐい》なぞが、その最初の主《おも》なる目的物であったのだ。
十一月下旬のはじめには、半蔵らは二日ほど逗留《とうりゅう》した公郷村をも辞し、山上の家族にも別れを告げ、七郎左衛門から記念として贈られた古刀や光琳《こうりん》の軸なぞをそれぞれ旅の荷物に納めて、故郷の山へ向かおうとする人たちであった。おそらく今度の帰り途《みち》には、国を出て二度目に見る陰暦十五夜の月も照らそう。その旅の心は、熱い寂しい前途の思いと一緒になって、若い半蔵の胸にまじり合った。別れぎわに、七郎左衛門は街道から海の見えるところまで送って来て、下田の方の空を半蔵らにさして見せた。もはや異国の人は粗末な板画《はんが》などで見るような、そんな遠いところにいる人たちばかりではなかった。相模灘《さがみなだ》をへだてた下田の港の方には、最初のアメリカ領事ハリス、その書記ヒュウスケンが相携えてすでに海から陸に上り、長泉寺を仮の領事館として、赤と青と白とで彩《いろど》った星条の国旗を高くそこに掲げていたころである。
[#改頁]
第四章
一
中津川の商人、万屋安兵衛《よろずややすべえ》、手代《てだい》嘉吉《かきち》、同じ町の大和屋李助《やまとやりすけ》、これらの人たちが生糸売り込みに目をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、美濃《みの》を出発して来たのはやがて安政六年の十月を迎えたころである。中津川の医者で、半蔵の旧《ふる》い師匠にあたる宮川寛斎《みやがわかんさい》も、この一行に加わって来た。もっとも、寛斎はただの横浜見物ではなく、やはり出稼《でかせ》ぎの一人《ひとり》として――万屋安兵衛の書役《かきやく》という形で。
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