を迎えた。紅《あか》くはあるが、そうまぶしく輝かない。木曾の奥山に住み慣れた人たちは、谷間からだんだん明るくなることは知っていても、こんな日の出は知らないのだ。間もなく三人は千住《せんじゅ》の方面をさして、静かにその橋のたもとからも離れて行った。
四
千住から日光への往復九十里、横須賀への往復に三十四里、それに江戸と木曾との間の往復の里程を加えると、半蔵らの踏む道はおよそ二百九十里からの旅である。
日光への寄り道を済まして、もう一度三人が千住まで引き返して来たころは、旅の空で旧暦十一月の十日過ぎを迎えた。その時は、千住からすぐに高輪《たかなわ》へと取り、札《ふだ》の辻《つじ》の大木戸《おおきど》、番所を経て、東海道へと続く袖《そで》が浦《うら》の岸へ出た。うわさに聞く御台場《おだいば》、五つの堡塁《ほうるい》から成るその建造物はすでに工事を終わって、沖合いの方に遠く近く姿をあらわしていた。大森《おおもり》の海岸まで行って、半蔵はハッとした。初めて目に映る蒸汽船――徳川幕府がオランダ政府から購《か》い入れたという外輪型《がいりんがた》の観光丸がその海岸から望まれた。
とうとう、半蔵らの旅は深い藍色《あいいろ》の海の見えるところまで行った。神奈川《かながわ》から金沢《かなざわ》へと進んで、横須賀行きの船の出る港まで行った。客や荷物を待つ船頭が波打ちぎわで船のしたくをしているところまで行った。
「なんだか遠く来たような気がする。郷里《くに》の方でも、みんなどうしていましょう。」
「さあ、ねえ。」
「わたしたちが帰って行く時分には、もう雪が村まで来ていましょう。」
「なんだぞなし。きっと、けさはサヨリ飯でもたいて、こっちのうわさでもしているぞなし。」
三人はこんなことを語り合いながら、金沢の港から出る船に移った。
海は動いて行く船の底でおどった。もはや、半蔵らはこれから尋ねて行こうとする横須賀在、公郷村《くごうむら》の話で持ち切った。五百年からの歴史のある古い山上《やまがみ》の家族がそこに住むかと語り合った。三浦一族の子孫にあたるという青山家の遠祖が、あの山上の家から分かれて、どの海を渡り、どの街道を通って、遠く木曾谷の西のはずれまではいって行ったものだろうと語り合った。
当時の横須賀はまだ漁村である。船から陸を見て行くことも生まれて初めてのような半蔵らには、その辺を他の海岸に比べて言うこともできなかったが、大島小島の多い三浦半島の海岸に沿うて旅を続けていることを想《おも》って見ることはできた。ある岬《みさき》のかげまで行った。海岸の方へ伸びて来ている山のふところに抱かれたような位置に、横須賀の港が隠れていた。
公郷村《くごうむら》とは、船の着いた漁師町《りょうしまち》から物の半道と隔たっていなかった。半蔵らは横須賀まで行って、山上のうわさを耳にした。公郷村に古い屋敷と言えば、土地の漁師にまでよく知られていた。三人がはるばる尋ねて行ったところは、木曾の山の中で想像したとは大違いなところだ。長閑《のどか》なことも想像以上だ。ほのかな鶏の声が聞こえて、漁師たちの住む家々の屋根からは静かに立ちのぼる煙を見るような仙郷《せんきょう》だ。
妻籠《つまご》本陣青山寿平次殿へ、短刀一本。ただし、古刀。銘なし。馬籠《まごめ》本陣青山半蔵殿へ、蓬莱《ほうらい》の図掛け物一軸。ただし、光琳《こうりん》筆。山上家の当主、七郎左衛門は公郷村の住居《すまい》の方にいて、こんな記念の二品までも用意しながら、二人《ふたり》の珍客を今か今かと待ち受けていた。
「もうお客さまも見えそうなものだぞ。だれかそこいらまで見に行って来い。」
と家に使っている男衆に声をかけた。
半蔵らが百里の道も遠しとしないで尋ねて来るという報知《しらせ》は七郎左衛門をじっとさせて置かなかった。彼は古い大きな住宅の持ち主で、二十畳からある広間を奥の方へ通り抜け、人|一人《ひとり》隠れられるほどの太い大極柱《だいこくばしら》のわきを回って、十五畳、十畳と二|部屋《へや》続いた奥座敷のなかをあちこちと静かに歩いた。そこは彼が客をもてなすために用意して待っていたところだ。心をこめた記念の二品は三宝《さんぽう》に載せて床の間に置いてある。先祖伝来の軸物などは客待ち顔に壁の上に掛かっている。
七郎左衛門の家には、三浦氏から山上氏、山上氏から青山氏と分かれて行ったくわしい系図をはじめ、祖先らの遺物と伝えらるる古い直垂《ひたたれ》から、武具、書画、陶器の類《たぐい》まで、何百年となく保存されて来たものはかなり多い。彼が客に見せたいと思う古文書なぞは、取り出したら際限《きり》のないほど長櫃《ながびつ》の底に埋《うず》まっている。あれもこれもと思う心で、彼は奥座敷から古い庭の見える方へ行った。松林の多い裏山つづきに樹木をあしらった昔の人の意匠がそこにある。硬質な岩の間に躑躅《つつじ》、楓《かえで》なぞを配置した苔蒸《こけむ》した築山《つきやま》がそこにある。どっしりとした古風な石燈籠《いしどうろう》が一つ置いてあって、その辺には円《まる》く厚ぼったい「つわぶき」なぞも集めてある。遠い祖先の昔はまだそんなところに残って、子孫の目の前に息づいているかのようでもある。
「まあ、客が来たら、この庭でも見て行ってもらおう。これは自分が子供の時分からながめて来た庭だ。あの時分からほとんど変わらない庭だ。」
こんなことを思いながら待ち受けているところへ、半蔵と寿平次の二人が佐吉を供に連れて着いた。その時、七郎左衛門は家のものを呼んで袴《はかま》を持って来させ、その上に短い羽織を着て、古い鎗《やり》なぞの正面の壁の上に掛かっている玄関まで出て迎えた。
「これは。これは。」
七郎左衛門は驚きに近いほどのよろこびのこもった調子で言った。
「これ、お供の衆。まあ草鞋《わらじ》でも脱いで、上がってください。」
と彼の家内《かない》までそこへ出て言葉を添える。案内顔な主人のあとについて、寿平次は改まった顔つき、半蔵も眉《まゆ》をあげながら奥の方へ通ったあとで、佐吉は二人の脱いだ草鞋の紐《ひも》など結び合わせた。
やがて、奥座敷では主人と寿平次との一別以来の挨拶《あいさつ》、半蔵との初対面の挨拶なぞがあった。主人の引き合わせで、幾人の家の人が半蔵らのところへ挨拶に来るとも知れなかった。これは忰《せがれ》、これはその弟、これは嫁、と主人の引き合わせが済んだあとには、まだ幼い子供たちが目を円《まる》くしながら、かわるがわるそこへお辞儀をしに出て来た。
「青山さん、わたしどもには三夫婦もそろっていますよ。」
この七郎左衛門の言葉がまず半蔵らを驚かした。
古式を重んずる※[#「肄のへん+欠」、第3水準1−86−31]待《もてなし》のありさまが、間もなくそこにひらけた。土器《かわらけ》なぞを三宝の上に載せ、挨拶かたがたはいって来る髪の白いおばあさんの後ろからは、十六、七ばかりの孫娘が瓶子《へいじ》を運んで来た。
「おゝ、おゝ、よい子息《むすこ》さんがただ。」
とおばあさんは半蔵の前にも、寿平次の前にも挨拶に来た。
「とりあえず一つお受けください。」
とまたおばあさんは言いながら、三つ組の土器《かわらけ》を白木の三宝のまま丁寧に客の前に置いて、それから冷酒《れいしゅ》を勧めた。
「改めて親類のお盃《さかずき》とやりますかな。」
そういう七郎左衛門の愉快げな声を聞きながら、まず年若な寿平次が土器を受けた。続いて半蔵も冷酒を飲みほした。
「でも、不思議な御縁じゃありませんか。」と七郎左衛門はおばあさんの方を見て言った。「わたしが妻籠《つまご》の青山さんのお宅へ一晩泊めていただいた時に、同じ定紋《じょうもん》から昔がわかりましたよ。えゝ、丸《まる》に三《み》つ引《びき》と、※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]《か》に木瓜《もっこう》とでさ。さもなかったら、わたしは知らずに通り過ぎてしまうところでしたし、わざわざお二人で訪《たず》ねて来てくださるなんて、こんなめずらしいことも起こって来やしません。こうしてお盃を取りかわすなんて、なんだか夢のような気もします。」
「そりゃ、お前さん、御先祖さまが引き合わせてくだすったのさ。」
おばあさんは、おばあさんらしいことを言った。
相州三浦の公郷村まで動いたことは、半蔵にとって黒船上陸の地点に近いところまで動いて見たことであった。
その時になると、半蔵は浦賀に近いこの公郷村の旧家に身を置いて、あの追分《おいわけ》の名主《なぬし》文太夫《ぶんだゆう》から見せてもらって来た手紙も、両国十一屋の隠居から聞いた話も、すべてそれを胸にまとめて見ることができた。江戸から踏んで来た松並樹《まつなみき》の続いた砂の多い街道は、三年前|丑年《うしどし》の六月にアメリカのペリイが初めての着船を伝えたころ、早飛脚の織るように往来したところだ。当時|木曾路《きそじ》を通過した尾張《おわり》藩の家中、続いて彦根《ひこね》の家中などがおびただしい同勢で山の上を急いだのも、この海岸一帯の持ち場持ち場を堅めるため、あるいは浦賀の現場へ駆けつけるためであったのだ。
そういう半蔵はここまで旅を一緒にして来た寿平次にたんとお礼を言ってもよかった。もし寿平次の誘ってくれることがなかったら、容易にはこんな機会は得られなかったかもしれない。供の佐吉にも感謝していい。雨の日も風の日も長い道中を一緒にして、影の形に添うように何くれと主人の身をいたわりながら、ここまでやって来たのも佐吉だ。おかげと半蔵は平田入門のこころざしを果たし、江戸の様子をも探り、日光の地方をも見、いくらかでもこれまでの旅に開けて来た耳でもって、七郎左衛門のような人の話をきくこともできた。
半蔵の前にいる七郎左衛門は、事あるごとに浦賀の番所へ詰めるという人である。この内海へ乗り入れる一切の船舶は一応七郎左衛門のところへ断わりに来るというほど土地の名望を集めている人である。
古風な盃の交換も済んだころ、七郎左衛門の家内の茶菓などをそこへ運んで来て言った。
「あなた、茶室の方へでも御案内したら。」
「そうさなあ。」
「あちらの方が落ち着いてよくはありませんか。」
「いろいろお話を伺いたいこともある。とにかく、吾家《うち》にある古い系図をここでお目にかけよう。それから茶室の方へ御案内するとしよう。」
そう七郎左衛門は答えて、一丈も二丈もあるような巻き物を奥座敷の小襖《こぶすま》から取り出して来た。その長巻の軸を半蔵や寿平次の前にひろげて見せた。
この山上の家がまだ三浦の姓を名乗っていた時代の遠い先祖のことがそこに出て来た。三浦の祖で鎮守府《ちんじゅふ》将軍であった三浦|忠通《ただみち》という人の名が出て来た。衣笠城《きぬがさじょう》を築き、この三浦半島を領していた三浦平太夫という人の名も出て来た。治承《じしょう》四年の八月に、八十九歳で衣笠城に自害した三浦|大介義明《おおすけよしあき》という人の名も出て来た。宝治《ほうじ》元年の六月、前将軍|頼経《よりつね》を立てようとして事|覚《あらわ》れ、討手《うって》のために敗られて、一族共に法華堂《ほっけどう》で自害した三浦|若狭守泰村《わかさのかみやすむら》という人の名なぞも出て来た。
「ホ。半蔵さん、御覧なさい。ここに三浦|兵衛尉義勝《ひょうえのじょうよしかつ》とありますよ。この人は従《じゅ》五位|下《げ》だ。元弘《げんこう》二年|新田義貞《にったよしさだ》を輔《たす》けて、鎌倉《かまくら》を攻め、北条高時《ほうじょうたかとき》の一族を滅ぼす、先世の讐《あだ》を復《かえ》すというべしとしてありますよ。」
「みんな戦場を駆け回った人たちなんですね。」
寿平次も半蔵も互いに好奇心に燃えて、そのくわしい系図に見入った。
「つまり三浦の家は一度北条|早雲《そううん》に滅ぼされて、それからまた再興したんですね。」と七郎左衛門は言った。「五千町の田地をもらっ
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