りあえず当地のありさま申し上げ候。
以上。」
[#ここで字下げ終わり]
実に、一息に、かねて心にかかっていたことが半蔵の胸の中を通り過ぎた。これだけの消息も、木曾の山の中までは届かなかったものだ。すくなくも、半蔵が狭い見聞の世界へは、漠然《ばくぜん》としたうわさとしてしかはいって来なかったものだ。あの彦根《ひこね》の早飛脚が一度江戸のうわさを伝えてからの混雑、狼狽《ろうばい》そのものと言うべき諸大名がおびただしい通行、それから引き続きこの街道に起こって来た種々な変化の意味も、その時思い合わされた。
「寿平次さん、君はこの手紙をどう思いますね。」
「さあ、わたしもこれほどとは思わなかった。」
半蔵は寿平次と顔を見合わせたが、激しい精神《こころ》の動揺は隠せなかった。
三
郷里を出立してから十一日目に三人は板橋の宿を望んだ。戸田川の舟渡しを越して行くと、木曾街道もその終点で尽きている。そこまでたどり着くと江戸も近かった。
十二日目の朝早く三人は板橋を離れた。江戸の中心地まで二里と聞いただけでも、三人が踏みしめて行く草鞋《わらじ》の先は軽かった。道中記のたよりになるのも板橋《いたばし》までで、巣鴨《すがも》の立場《たてば》から先は江戸の絵図にでもよるほかはない。安政の大地震後一年目で、震災当時多く板橋に避難したという武家屋敷の人々もすでに帰って行ったころであるが、仮小屋の屋根、傾いた軒、新たに修繕の加えられた壁なぞは行く先に見られる。三人は右を見、左を見して、本郷《ほんごう》森川宿から神田明神《かんだみょうじん》の横手に添い、筋違見附《すじかいみつけ》へと取って、復興最中の町にはいった。
「これが江戸か。」
半蔵らは八十余里の道をたどって来て、ようやくその筋違《すじかい》の広場に、見附の門に近い高札場《こうさつば》の前に自分らを見つけた。広場の一角に配置されてある大名屋敷、向こうの町の空に高い火見櫓《ひのみやぐら》までがその位置から望まれる。諸役人は騎馬で市中を往来すると見えて、鎗持《やりも》ちの奴《やっこ》、その他の従者を従えた馬上の人が、その広場を横ぎりつつある。にわかに講武所《こうぶしょ》の創設されたとも聞くころで、旗本《はたもと》、御家人《ごけにん》、陪臣《ばいしん》、浪人《ろうにん》に至るまでもけいこの志望者を募るなぞの物々しい空気が満ちあふれていた。
半蔵らがめざして行った十一屋という宿屋は両国《りょうごく》の方にある。小網町《こあみちょう》、馬喰町《ばくろちょう》、日本橋|数寄屋町《すきやちょう》、諸国旅人の泊まる定宿《じょうやど》もいろいろある中で、半蔵らは両国の宿屋を選ぶことにした。同郷の人が経営しているというだけでもその宿屋は心やすく思われたからで。ちょうど、昌平橋《しょうへいばし》から両国までは船で行かれることを教えてくれる人もあって、三人とも柳の樹《き》の続いた土手の下を船で行った。うわさに聞く浅草橋《あさくさばし》まで行くと、筋違《すじかい》で見たような見附《みつけ》の門はそこにもあった。両国の宿屋は船の着いた河岸《かし》からごちゃごちゃとした広小路《ひろこうじ》を通り抜けたところにあって、十一屋とした看板からして堅気風《かたぎふう》な家だ。まだ昼前のことで、大きな風呂敷包《ふろしきづつ》みを背負《しょ》った男、帳面をぶらさげて行く小僧なぞが、その辺の町中を往《い》ったり来たりしていた。
「皆さんは木曾《きそ》の方から。まあ、ようこそ。」
と言って迎えてくれる若いかみさんの声を聞きながら、半蔵も寿平次も草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解いた。そこへ荷を卸した佐吉のそばで、二人《ふたり》とも長い道中のあとの棒のようになった足を洗った。
「ようやく、ようやく。」
二階の部屋《へや》へ案内されたあとで、半蔵は寿平次と顔を見合わせて言ったが、まだ二人とも脚絆《きゃはん》をつけたままだった。
「ここまで来ると、さすがに陽気は違いますなあ。宿屋の女中なぞはまだ袷《あわせ》を着ていますね。」
と寿平次も言って、その足で部屋のなかを歩き回った。
半蔵が江戸へ出たころは、木曾の青年でこの都会に学んでいるという人のうわさも聞かなかった。ただ一人《ひとり》、木曾福島の武居拙蔵《たけいせつぞう》、その人は漢学者としての古賀※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]庵《こがどうあん》に就《つ》き、塩谷宕陰《しおのやとういん》、松崎慊堂《まつざきこうどう》にも知られ、安井息軒《やすいそっけん》とも交わりがあって、しばらく御茶《おちゃ》の水《みず》の昌平黌《しょうへいこう》に学んだが、親は老い家は貧しくて、数年前に郷里の方へ帰って行ったといううわさだけが残っていた。
半蔵もまだ若かった。青年として生くべき道を求めていた彼には、そうした方面のうわさにも心をひかれた。それにもまして彼の注意をひいたのは、幕府で設けた蕃書調所《ばんしょしらべしょ》なぞのすでに開かれていると聞くことだった。箕作阮甫《みつくりげんぽ》、杉田成卿《すぎたせいけい》なぞの蘭《らん》学者を中心に、諸人所蔵の蕃書の翻訳がそこで始まっていた。
この江戸へ出て来て見ると、日に日に外国の勢力の延びて来ていることは半蔵なぞの想像以上である。その年の八月には三隻の英艦までが長崎にはいったことの報知《しらせ》も伝わっている。品川沖《しながわおき》には御台場《おだいば》が築かれて、多くの人の心に海防の念をよび起こしたとも聞く。外国|御用掛《ごようがかり》の交代に、江戸城を中心にした交易大評定のうわさに、震災後めぐって来た一周年を迎えた江戸の市民は毎日のように何かの出来事を待ち受けるかのようでもある。
両国へ着いた翌日、半蔵は寿平次と二人で十一屋の二階にいて、遠く町の空に響いて来る大砲調練の音なぞをききながら、旅に疲れたからだを休めていた。佐吉も階下《した》で別の部屋《へや》に休んでいた。同郷と聞いてはなつかしいと言って、半蔵たちのところへ話し込みに来る宿屋の隠居もある。その話し好きな隠居は、木曾の山の中を出て江戸に運命を開拓するまでの自分の苦心なぞを語った末に、
「あなたがたに江戸の話を聞かせろとおっしゃられても、わたしも困る。」
と断わって、なんと言っても忘れがたいのは嘉永《かえい》六年の六月に十二代将軍の薨去《こうきょ》を伝えたころだと言い出した。
受け売りにしても隠居の話はくわしかった。ちょうどアメリカのペリイが初めて浦賀に渡来した翌日あたりは、将軍は病の床にあった。強い暑さに中《あた》って、多勢の医者が手を尽くしても、将軍の疲労は日に日に増すばかりであった。将軍自身にももはや起《た》てないことを知りながら、押して老中を呼んで、今回の大事は開闢《かいびゃく》以来の珍事である、自分も深く心を痛めているが、不幸にして大病に冒され、いかんともすることができないと語ったという。ついては、水戸《みと》の隠居(烈公)は年来海外のことに苦心して、定めしよい了簡《りょうけん》もあろうから、自分の死後外国処置の件は隠居に相談するようにと言い置いたという。アメリカの軍艦が内海に乗り入れたのは、その夜のことであった。宿直のものから、ただいま伊勢《いせ》(老中|阿部《あべ》)登城、ただいま備後《びんご》(老中牧野)登城と上申するのを聞いて、将軍はすぐにこれへ呼べと言い、「肩衣《かたぎぬ》、肩衣」と求めた。その時将軍はすでに疲れ切っていた。極度に困《くる》しんで、精神も次第に恍惚《こうこつ》となるほどだった。それでも人に扶《たす》けられて、いつものように正しくすわり直し、肩衣を着けた。それから老中を呼んで、二人《ふたり》の言うことを聞こうとしたが、アメリカの軍艦がまたにわかに外海へ出たという再度の報知《しらせ》を得たので、二人の老中も拝謁《はいえつ》を請うには及ばないで引き退いた。翌日、将軍は休息の部屋《へや》で薨《こう》じた。
十一屋の隠居はこの話を日ごろ出入りする幕府|奥詰《おくづめ》の医者で喜多村瑞見《きたむらずいけん》という人から聞いたと半蔵らに言い添えて見せた。さらに言葉を継いで、
「わたしはあの公方様《くぼうさま》の話を思い出すと、涙が出て来ます。何にしろ、あなた、初めて異国の船が内海に乗り入れた時の江戸の騒ぎはありませんや。諸大名は火事具足《かじぐそく》で登城するか、持ち場持ち場を堅めるかというんでしょう。火の用心のお触れは出る。鉄砲や具足の値は平常《ふだん》の倍になる。海岸の方に住んでいるものは、みんな荷物を背負《しょ》って逃げましたからね。わたしもこんな宿屋商売をして見ていますが、世の中はあれから変わりましたよ。」
半蔵も、寿平次も、この隠居の出て行ったあとで、ともかくも江戸の空気の濃い町中に互いの旅の身を置き得たことを感じた。木曾の山の中にいて想像したと、出て来て見たとでは、実にたいした相違であることをも感じた。
「半蔵さん、きょうは国へ手紙でも書こう。」
「わたしも一つ、馬籠《まごめ》へ出すか。」
「半蔵さん、君はそれじゃ佐吉を連れて、あす平田先生を訪《たず》ねるとしたまえ。」
とりあえずそんな相談をして、その日一日は二人とも休息することにした。旅に限りがあって、そう長い江戸の逗留《とうりゅう》は予定の日取りが許さなかった。まだこれから先に日光《にっこう》行き、横須賀《よこすか》行きも二人を待っていた。
寿平次は手を鳴らして宿のかみさんを呼んだ。もうすこし早く三人が出て来ると、夷講《えびすこう》に間に合って、大伝馬町《おおてんまちょう》の方に立つべったら市のにぎわいも見られたとかみさんはいう。芝居《しばい》は、と尋ねると、市村《いちむら》、中村、森田三座とも狂言|名題《なだい》の看板が出たばかりのころで、茶屋のかざり物、燈籠《とうろう》、提灯《ちょうちん》、つみ物なぞは、あるいは見られても、狂言の見物には月のかわるまで待てという。当時売り出しの作者の新作で、世話に砕けた小団次《こだんじ》の出し物が見られようかともいう。
「朔日《ついたち》の顔見世《かおみせ》は明けの七つ時《どき》でございますよ。太夫《たゆう》の三番叟《さんばそう》でも御覧になるんでしたら、暗いうちからお起きにならないと、間に合いません。」
「江戸の芝居見物も一日がかりですね。」
こんな話の出るのも、旅らしかった。
夕飯後、半蔵はかねて郷里を出る時に用意して来た一通の書面を旅の荷物の中から取り出した。
「どれ、一つ寿平次さんに見せますか。これがあす持って行く誓詞《せいし》です。」
と言って寿平次の前に置いた。
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誓詞
「このたび、御門入り願い奉《たてまつ》り候《そうろう》ところ、御許容なし下され、御門人の列に召し加えられ、本懐の至りに存じ奉り候。しかる上は、専《もは》ら皇国の道を尊信いたし、最も敬神の儀怠慢いたすまじく、生涯《しょうがい》師弟の儀忘却|仕《つかまつ》るまじき事。
公《おおやけ》の御制法に相背《あいそむ》き候儀は申すに及ばず。すべて古学を申し立て、世間に異様の行ないをいたし、人の見聞を驚かし候ようの儀これあるまじく、ことさら師伝と偽り奇怪の説など申し立て候儀、一切仕るまじき事。
御流儀においては、秘伝口授など申す儀、かつてこれなき段、堅く相守り、さようの事申し立て候儀これあるまじく、すべて鄙劣《ひれつ》の振舞をいたし古学の名を穢《けが》し申すまじき事。
学の兄弟相かわらず随分|睦《むつ》まじく相交わり、互いに古学興隆の志を相励み申すべく、我執《がしゅう》を立て争論なぞいたし候儀これあるまじき事。
右の条々、謹《つつし》んで相守り申すべく候。もし違乱に及び候わば、八百万《やおよろず》の天津神《あまつかみ》、国津神《くにつかみ》、明らかに知ろしめすべきところなり。よって、誓詞|如件《くだんのごとし》。」
[#地から4字上げ]信州、木曾、馬籠村
[#地から2字上げ]青山半蔵
安政三年十月
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