《やぶはら》二宿を越したところにある。風は冷たくても、日はかんかん照りつけた。前途の遠さは曲がりくねった坂道に行き悩んだ時よりも、かえってその高い峠の上に御嶽遙拝所《おんたけようはいじょ》なぞを見つけた時にあった。そこは木曾川の上流とも別れて行くところだ。
「寿平次さん、江戸から横須賀《よこすか》まで何里とか言いましたね。」
「十六里さ。わたしは道中記でそれを調べて置いた。」
「江戸までの里数を入れると、九十九里ですか。」
「まあ、ざっと百里というものでしょう。」
 供の佐吉も、この主人らの話を引き取って、
「まだこれから先に木曾二宿もあるら。江戸は遠いなし。」
 こんな言葉をかわしながら、三人とも日暮れ前の途《みち》を急いで、やがてその峠を降りた。


「お泊まりなすっておいでなさい。奈良井《ならい》のお宿《やど》はこちらでございます。浪花講《なにわこう》の御定宿《おじょうやど》はこちらでございます。」
 しきりに客を招く声がする。街道の両側に軒を並べた家々からは、競うようにその招き声が聞こえる。半蔵らが鳥居峠を降りて、そのふもとにある奈良井に着いた時は、他の旅人らも思い思いに旅籠屋《はたごや》を物色しつつあった。
 半蔵はかねて父の懇意にする庄屋《しょうや》仲間の家に泊めてもらうことにして、寿平次や佐吉をそこへ誘った。往来の方へ突き出したようなどこの家の低い二階にもきまりで表廊下が造りつけてあって、馬籠や妻籠に見る街道風の屋造りはその奈良井にもあった。
「半蔵さん、わたしはもう胼胝《まめ》をこしらえてしまった。」
 と寿平次は笑いながら言って、草鞋《わらじ》のために水腫《みずば》れのした足を盥《たらい》の中の湯に浸した。半蔵も同じように足を洗って、広い囲炉裏ばたから裏庭の見える座敷へ通された。きのこ、豆、唐辛《とうがらし》、紫蘇《しそ》なぞが障子の外の縁に乾《ほ》してあるようなところだ。気の置けない家だ。
「静かだ。」
 寿平次は腰にした道中差《どうちゅうざ》しを部屋《へや》の床の間へ預ける時に言った。その静かさは、河《かわ》の音の耳につく福島あたりにはないものだった。そこの庄屋の主人は、半蔵が父とはよく福島の方で顔を合わせると言い、この同じ部屋に吉左衛門を泊めたこともあると言い、そんな縁故からも江戸行きの若者をよろこんでもてなそうとしてくれた。ちょうど鳥屋《とや》のさかりのころで、木曾名物の小鳥でも焼こうと言ってくれるのもそこの主人だ。鳥居峠の鶫《つぐみ》は名高い。鶫ばかりでなく、裏山には駒鳥《こまどり》、山郭公《やまほととぎす》の声がきかれる。仏法僧《ぶっぽうそう》も来て鳴く。ここに住むものは、表の部屋に向こうの鳥の声をきき、裏の部屋にこちらの鳥の声をきく。そうしたことを語り聞かせるのもまたそこの主人だ。
 半蔵らは同じ木曾路でもずっと東寄りの宿場の中に来ていた。鳥居峠一つ越しただけでも、親たちや妻子のいる木曾の西のはずれはにわかに遠くなった。しかしそこはなんとなく気の落ち着く山のすそで、旅の合羽《かっぱ》も脚絆《きゃはん》も脱いで置いて、田舎《いなか》風な風呂《ふろ》に峠道の汗を忘れた時は、いずれも活《い》き返ったような心地《ここち》になった。


「ここの家は庄屋を勤めてるだけなんですね。本陣問屋は別にあるんですね。」
「そうらしい。」
 半蔵と寿平次は一風呂浴びたあとのさっぱりした心地で、奈良井の庄屋の裏座敷に互いの旅の思いを比べ合った。朝晩はめっきり寒く、部屋には炬燵《こたつ》ができているくらいだ。寿平次は下女がさげて来てくれた行燈《あんどん》を引きよせて、そのかげに道中の日記や矢立てを取り出した。藪原《やぶはら》で求めた草鞋《わらじ》が何|文《もん》、峠の茶屋での休みが何文というようなことまで細かくつけていた。
「寿平次さん、君はそれでも感心ですね。」
「どうしてさ。」
「妻籠の方でもわたしは君の机の上に載ってる覚え帳を見て来ました。君にはそういう綿密なところがある。」
 どうして半蔵がこんなことを言い出したかというに、本陣庄屋問屋の仕事は将来に彼を待ち受けていたからで。二人《ふたり》は十八歳のころから、すでにその見習いを命ぜられていて、福島の役所への出張といい、諸大名の送り迎えといい、二人が少年時代から受けて来た薫陶はすべてその準備のためでないものはなかった。半蔵がまだ親の名跡《みょうせき》を継がないのに比べると、寿平次の方はすでに青年の庄屋であるの違いだ。
 半蔵は嘆息して、
「吾家《うち》の阿爺《おやじ》の心持ちはわたしによくわかる。家を放擲《ほうてき》してまで学問に没頭するようなものよりも、よい本陣の跡継ぎを出したいというのが、あの人の本意なんでさ。阿爺《おやじ》ももう年を取っていますからね。」
「半蔵さんはため息ばかりついてるじゃありませんか。」
「でも、君には事務の執れるように具《そな》わってるところがあるからいい。」
「そう君のように、むずかしく考えるからさ。庄屋としては民意を代表するし、本陣問屋としては諸街道の交通事業に参加すると想《おも》って見たまえ。とにかく、働きがいはありますぜ。」
 囲炉裏ばたの方で焼く小鳥の香気は、やがて二人のいる座敷の方まで通って来た。夕飯には、下女が来て広い炬燵板《こたついた》の上を取り片づけ、そこを食卓の代わりとしてくれた。一本つけてくれた銚子《ちょうし》、串差《くしざ》しにして皿《さら》の上に盛られた鶫《つぐみ》、すべては客を扱い慣れた家の主人の心づかいからであった。その時、半蔵は次ぎの間に寛《くつろ》いでいる佐吉を呼んで、
「佐吉、お前もここへお膳《ぜん》を持って来ないか。旅だ。今夜は一杯やれ。」
 この半蔵の「一杯」が佐吉をほほえませた。佐吉は年若ながらに、半蔵よりも飲める口であったから。
「おれは囲炉裏ばたでいただかず。その方が勝手だで。」
 と言って佐吉は引きさがった。
「寿平次さん、わたしはこんな旅に出られたことすら、不思議のような気がする。実に一切から離れますね。」
「もうすこし君は楽な気持ちでもよくはありませんか。まあ、その盃《さかずき》でも乾《ほ》すさ。」
 若いもの二人《ふたり》は旅の疲れを忘れる程度に盃を重ねた。主人が馳走振《ちそうぶ》りの鶫も食った。焼きたての小鳥の骨をかむ音も互いの耳には楽しかった。
「しかし、半蔵さんもよく話すようになった。以前には、ほんとに黙っていたようですね。」
「自分でもそう思いますよ。今度の旅じゃ、わたしも平田入門を許されて来ました。吾家《うち》の阿爺《おやじ》もああいう人ですから、快く許してくれましたよ。わたしも、これで弟でもあると、家はその弟に譲って、もっと自分の勝手な方へ出て行って見たいんだけれど。」
「今から隠居でもするようなことを言い出した。半蔵さん――君は結局、宗教にでも行くような人じゃありませんか。わたしはそう思って見ているんだが。」
「そこまではまだ考えていません。」
「どうでしょう、平田先生の学問というものは宗教じゃないでしょうか。」
「そうも言えましょう。しかし、あの先生の説いたものは宗教でも、その精神はいわゆる宗教とはまるきり別のものです。」
「まるきり別のものはよかった。」
 炬燵話《こたつばなし》に夜はふけて行った。ひっそりとした裏山に、奈良井川の上流に、そこへはもう東木曾の冬がやって来ていた。山気は二人の身にしみて、翌朝もまた霜かと思わせた。


 追分《おいわけ》の宿まで行くと、江戸の消息はすでにそこでいくらかわかった。同行三人のものは、塩尻《しおじり》、下諏訪《しもすわ》から和田峠を越え、千曲川《ちくまがわ》を渡って、木曾街道と善光寺道との交叉点《こうさてん》にあたるその高原地の上へ出た。そこに住む追分の名主《なぬし》で、年寄役を兼ねた文太夫《ぶんだゆう》は、かねて寿平次が先代とは懇意にした間柄で、そんな縁故から江戸行きの若者らの素通りを許さなかった。
 名主文太夫は、野半天《のばんてん》、割羽織《わりばおり》に、捕繩《とりなわ》で、御領私領の入れ交《まじ》った十一か村の秣場《まぐさば》を取り締まっているような人であった。その地方にある山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどの見回りをしているような人であった。半蔵らはこの客好きな名主の家に引き留められて、佐久の味噌汁《みそしる》や堅い地大根《じだいこん》の沢庵《たくあん》なぞを味わいながら、赤松、落葉松《からまつ》の山林の多い浅間山腹がいかに郷里の方の谿《たに》と相違するかを聞かされた。曠野《こうや》と、焼け石と、砂と、烈風と、土地の事情に精通した名主の話は尽きるということを知らなかった。
 しかし、そればかりではない。半蔵らが追分に送った一夜の無意味でなかったことは、思いがけない江戸の消息までもそこで知ることができたからで。その晩、文太夫が半蔵や寿平次に取り出して見せた書面は、ある松代《まつしろ》の藩士から借りて写し取って置いたというものであった。嘉永《かえい》六年六月十一日付として、江戸屋敷の方にいる人の書き送ったもので、黒船騒ぎ当時の様子を伝えたものであった。
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「このたび、異国船渡り来《きた》り候《そうろう》につき、江戸表はことのほかなる儀にて、東海道筋よりの早注進《はやちゅうしん》矢のごとく、よって諸国御大名ところどころの御堅め仰せ付けられ候。しかるところ、異国船|神奈川沖《かながわおき》へ乗り入れ候おもむき、御老中《ごろうじゅう》御屋敷へ注進あり。右につき、夜分急に御登城にて、それぞれ御下知《ごげち》仰せ付けられ、七日夜までに出陣の面々は左の通り。
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一、松平越前守《まつだいらえちぜんのかみ》様、(越前福井藩主)品川《しながわ》御殿山《ごてんやま》お堅《かた》め。
一、細川越中守《ほそかわえっちゅうのかみ》様、(肥後熊本藩主)大森村《おおもりむら》お堅め。
一、松平|大膳太夫《だいぜんだゆう》様、(長州藩主)鉄砲洲《てっぽうず》および佃島《つくだじま》。
一、松平|阿波守《あわのかみ》様、(阿州徳島藩主)御浜御殿《おはまごてん》。
一、酒井雅楽頭《さかいうたのかみ》様、(播州《ばんしゅう》姫路《ひめじ》藩主)深川《ふかがわ》一円。
一、立花左近将監《たちばなさこんしょうげん》様。伊豆大島《いずおおしま》一円。松平|下総守《しもうさのかみ》様、安房《あわ》上総《かずさ》の両国。その他、川越《かわごえ》城主松平|大和守《やまとのかみ》様をはじめ、万石以上にて諸所にお堅めのため出陣の御大名数を知らず。
  公儀御目付役、戸川|中務少輔《なかつかさしょうゆう》様、松平|十郎兵衛《じゅうろべえ》様、右御両人は異国船見届けのため、陣場見回り仰せ付けられ、六日夜浦賀表へ御出立にこれあり候。
  さて、このたびの異国船、国名相尋ね候ところ、北アメリカと申すところ。大船四|艘《そう》着船。もっとも船の中より、朝夕一両度ずつ大筒《おおづつ》など打ち放し申し候よし。町人並びに近在のものは賦役《ふえき》に遣《つか》わされ、海岸の人家も大方はうちつぶして諸家様のお堅め場所となり、民家の者ども妻子を引き連れて立ち退《の》き候もあり、米石《べいこく》日に高く、目も当てられず。実に戦国の習い、是非もなき次第にこれあり候。八日の早暁にいたり、御触れの文面左の通り。
一、異国船万一にも内海へ乗り入れ、非常の注進これあり候節は、老中より八代洲河岸《やしろすがし》火消し役へ相達し、同所にて平日の出火に紛れざるよう早鐘うち出《いだ》し申すべきこと。
一、右の通り、火消し役にて早鐘うち出し候節は、出火の通り相心得、登城の道筋その他相堅め候よういたすべきこと。
一、右については、江戸場末まで早鐘行き届かざる場合もこれあるべく、万石以上の面々においては早半鐘《はやはんしょう》相鳴らし申すべきこと。
  右のおもむき、御用番御老中よりも仰せられ候。と
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