守り立てた人である。お民の女の子のうわさを半蔵にして、寿平次に迎えた娵《よめ》のお里にはまだ子がないことなどを言って見せる人である。隠居は家の人たちと一緒に門口に出て、寿平次を見送る時に言った。
「お前にはもうすこし背をくれたいなあ。」
 この言葉が寿平次を苦笑させた。隠居は背の高い半蔵に寿平次を見比べて、江戸へ行って恥をかいて来てくれるなというふうにそれを言ったからで。
 半蔵や寿平次は檜木笠をかぶった。佐吉も荷物をかついでそのあとについた。同行三人のものはいずれも軽い草鞋《わらじ》で踏み出した。

       二

 木曾十一宿はおおよそ三つに分けられて、馬籠《まごめ》、妻籠《つまご》、三留野《みどの》、野尻《のじり》を下《しも》四宿といい、須原《すはら》、上松《あげまつ》、福島《ふくしま》を中《なか》三宿といい、宮《みや》の越《こし》、藪原《やぶはら》、奈良井《ならい》、贄川《にえがわ》を上《かみ》四宿という。半蔵らの進んで行った道はその下四宿から奥筋への方角であるが、こうしてそろって出かけるということがすでにめずらしいことであり、興も三人の興で、心づかいも三人の心づかいであった。あそこの小屋の前に檜木《ひのき》の実が乾《ほ》してあった、ここに山の中らしい耳のとがった茶色な犬がいた、とそんなことを語り合って行く間にも楽しい笑い声が起こった。一人の草鞋《わらじ》の紐《ひも》が解けたと言えば、他の二人《ふたり》はそれを結ぶまで待った。
 深い森林の光景がひらけた。妻籠から福島までの間は寿平次のよく知っている道で、福島の役所からの差紙《さしがみ》でもあるおりには半蔵も父吉左衛門の代理としてこれまで幾たびとなく往来したことがある。幼い時分から街道を見る目を養われた半蔵らは、馬方や人足や駕籠《かご》かきなぞの隠れたところに流している汗を行く先に見つけた。九月から残った蠅《はえ》は馬にも人にも取りついて、それだけでも木曾路の旅らしい思いをさせた。
「佐吉、どうだい。」
「おれは足は達者《たっしゃ》だが、お前さまは。」
「おれも歩くことは平気だ。」
 寿平次と連れだって行く半蔵は佐吉を顧みて、こんな言葉をかわしては、また進んだ。
 秋も過ぎ去りつつあった。色づいた霜葉《しもは》は谷に満ちていた。季節が季節なら、木曾川の水流を利用して山から伐《き》り出した材木を流しているさかんな活動のさまがその街道から望まれる。小谷狩《こたにがり》にはややおそく、大川狩《おおかわがり》にはまだ早かった。河原《かわら》には堰《せき》を造る日傭《ひよう》の群れの影もない。木鼻《きはな》、木尻《きじり》の作業もまだ始まっていない。諸役人が沿岸の警戒に出て、どうかすると、鉄砲まで持ち出して、盗木流材を取り締まろうとするような時でもない。半蔵らの踏んで行く道はもはや幾たびか時雨《しぐれ》の通り過ぎたあとだった。気の置けないものばかりの旅で、三人はときどき路傍《みちばた》の草の上に笠《かさ》を敷いた。小松の影を落としている川の中洲《なかず》を前にして休んだ。対岸には山が迫って、檜木、椹《さわら》の直立した森林がその断層を覆《おお》うている。とがった三角を並べたように重なり合った木と木の梢《こずえ》の感じも深い。奥筋の方から渦巻《うずま》き流れて来る木曾川[#「木曾川」は底本では「木曽川」]の水は青緑の色に光って、乾《かわ》いたりぬれたりしている無数の白い花崗石《みかげいし》の間におどっていた。
 その年は安政の大地震後初めての豊作と言われ、馬籠の峠の上のような土地ですら一部落で百五十俵からの増収があった。木曾も妻籠から先は、それらの自然の恵みを受くべき田畠《たはた》とてもすくない。中三宿となると、次第に谷の地勢も狭《せば》まって、わずかの河岸《かし》の傾斜、わずかの崖《がけ》の上の土地でも、それを耕地にあててある。山のなかに成長して樹木も半分友だちのような三人には、そこの河岸に莢《さや》をたれた皀莢《さいかち》の樹《き》がある、ここの崖の上に枝の細い棗《なつめ》の樹があると、指《さ》して言うことができた。土地の人たちが路傍に設けた意匠もまたしおらしい。あるところの石垣《いしがき》の上は彼らの花壇であり、あるところの崖の下は二十三夜もしくは馬頭観音《ばとうかんのん》なぞの祭壇である。
 この谷の中だ。木曾地方の人たちが山や林を力にしているのに不思議はない。当時の木曾山一帯を支配するものは尾張藩《おわりはん》で、巣山《すやま》、留山《とめやま》、明山《あきやま》の区域を設け、そのうち明山のみは自由林であっても、許可なしに村民が五木を伐採することは禁じられてあった。言って見れば、檜木《ひのき》、椹《さわら》、明檜《あすひ》、高野槇《こうやまき》、※[#「木+鑞のつくり」、118−13]《ねずこ》の五種類が尾張藩の厳重な保護のもとにあったのだ。半蔵らは、名古屋から出張している諸役人の心が絶えずこの森林地帯に働いていることを知っていた。一石栃《いちこくとち》にある白木《しらき》の番所から、上松《あげまつ》の陣屋の辺へかけて、諸役人の目の光らない日は一日もないことを知っていた。
 しかし、巣山、留山とは言っても、絶対に村民の立ち入ることを許されない区域は極少部分に限られていた。自由林は木曾山の大部分を占めていた。村民は五木の厳禁を犯さないかぎり、意のままに明山を跋渉《ばっしょう》して、雑木を伐採したり薪炭《しんたん》の材料を集めたりすることができた。檜木笠、めんぱ(木製|割籠《わりご》)、お六櫛《ろくぐし》、諸種の塗り物――村民がこの森林に仰いでいる生活の資本《もとで》もかなり多い。耕地も少なく、農業も難渋で、そうかと言って塗り物渡世の材料も手に入れがたいところでは、「御免《ごめん》の檜物《ひもの》」と称《とな》えて、毎年千数百|駄《だ》ずつの檜木を申し受けている村もある。あるいはまた、そういう木材で受け取らない村々では、慶長《けいちょう》年度の昔から谷中一般人民に許された白木六千駄のかわりに、それを「御切替《おきりか》え」と称えて、代金で尾張藩から分配されて来た。これらは皆、歴史的に縁故の深い尾張藩が木曾山保護の精神にもとづく。どうして、山や林なしに生きられる地方ではないのだ。半蔵らの踏んで行ったのも、この大きな森林地帯を貫いている一筋道だ。
 寝覚《ねざめ》まで行くと、上松《あげまつ》の宿の方から荷をつけて来る牛の群れが街道に続いた。
「半蔵さま、どちらへ。」
 とその牛方仲間から声をかけるものがある。見ると、馬籠の峠のものだ。この界隈《かいわい》に顔を知られている牛行司《うしぎょうじ》利三郎だ。その牛行司は福島から積んで来た荷物の監督をして、美濃《みの》の今渡《いまど》への通し荷を出そうとしているところであった。
 その時、寿平次が尋ね顔に佐吉の方をふりかえると、佐吉は笑って、
「峠の牛よなし。」
 と無造作に片づけて見せた。
「寿平次さん、君も聞いたでしょう。あれが牛方事件の張本人でさ。」
 と言って、半蔵は寿平次と一緒に、その荒い縞《しま》の回《まわ》し合羽《がっぱ》を着た牛行司の後ろ姿を見送った。
 下民百姓の目をさまさせまいとすることは、長いこと上に立つ人たちが封建時代に執って来た方針であった。しかし半蔵はこの街道筋に起こって来た見のがしがたい新しい現象として、あの牛方事件から受け入れた感銘を忘れなかった。不正な問屋を相手に血戦を開き、抗争の意気で起《た》って来たのもあの牛行司であったことを忘れなかった。彼は旅で思いがけなくその人から声をかけられて見ると、たとい自分の位置が問屋側にあるとしても、そのために下層に黙って働いているような牛方仲間を笑えなかった。


 木曾福島の関所も次第に近づいた。三人ははらはら舞い落ちる木の葉を踏んで、さらに山深く進んだ。時には岩石が路傍に迫って来ていて、高い杉《すぎ》の枝は両側からおおいかぶさり、昼でも暗いような道を通ることはめずらしくなかった。谷も尽きたかと見えるところまで行くと、またその先に別の谷がひらけて、そこに隠れている休み茶屋の板屋根からは青々とした煙が立ちのぼった。桟《かけはし》、合渡《ごうど》から先は木曾川も上流の勢いに変わって、山坂の多い道はだんだん谷底へと降《くだ》って行くばかりだ。半蔵らはある橋を渡って、御嶽《おんたけ》の方へ通う山道の分かれるところへ出た。そこが福島の城下町であった。
「いよいよ御関所ですかい。」
 佐吉は改まった顔つきで、主人らの後ろから声をかけた。
 福島の関所は木曾街道中の関門と言われて、大手橋の向こうに正門を構えた山村氏の代官屋敷からは、河《かわ》一つ隔てた町はずれのところにある。「出女《でおんな》、入《い》り鉄砲《でっぽう》」と言った昔は、西よりする鉄砲の輸入と、東よりする女の通行をそこで取り締まった。ことに女の旅は厳重をきわめたもので、髪の長いものはもとより、そうでないものも尼《あま》、比丘尼《びくに》、髪切《かみきり》、少女《おとめ》などと通行者の風俗を区別し、乳まで探って真偽を確かめたほどの時代だ。これは江戸を中心とする参覲《さんきん》交代の制度を語り、一面にはまた婦人の位置のいかなるものであるかを語っていた。通り手形を所持する普通の旅行者にとって、なんのはばかるところはない。それでもいよいよ関所にかかるとなると、その手前から笠《かさ》や頭巾《ずきん》を脱ぎ、思わず襟《えり》を正したものであるという。
 福島では、半蔵らは関所に近く住む植松菖助《うえまつしょうすけ》の家を訪《たず》ねた。父吉左衛門からの依頼で、半蔵はその人に手紙を届けるはずであったからで。菖助は名古屋藩の方に聞こえた宮谷家から後妻を迎えている人で、関所を預かる主《おも》な給人《きゅうにん》であり、砲術の指南役であり、福島でも指折りの武士の一人《ひとり》であった。ちょうど非番の日で、菖助は家にいて、半蔵らの立ち寄ったことをひどくよろこんだ。この人は伏見屋あたりへ金の融通《ゆうずう》を頼むために、馬籠の方へ見えることもある。それほど武士も生活には骨の折れる時になって来ていた。
「よい旅をして来てください。時に、お二人《ふたり》とも手形をお持ちですね。ここの関所は堅いというので知られていまして、大名のお女中がたでも手形のないものは通しません。とにかく、私が御案内しましょう。」
 と菖助は言って、餞別《せんべつ》のしるしにと先祖伝来の秘法による自家製の丸薬なぞを半蔵にくれた。
 平袴《ひらばかま》に紋付の羽織《はおり》で大小を腰にした菖助のあとについて、半蔵らは関所にかかった。そこは西の門から東の門まで一町ほどの広さがある。一方は傾斜の急な山林に倚《よ》り、一方は木曾川の断崖《だんがい》に臨んだ位置にある。山村|甚兵衛《じんべえ》代理格の奉行《ぶぎょう》、加番の給人らが四人も調べ所の正面に控えて、そのそばには足軽が二人ずつ詰めていた。西に一人、東に二人の番人がさらにその要害のよい門のそばを堅めていた。半蔵らは門内に敷いてある米石《こめいし》を踏んで行って、先着の旅行者たちが取り調べの済むまで待った。由緒《ゆいしょ》のある婦人の旅かと見えて、門内に駕籠《かご》を停《と》めさせ、乗り物のまま取り調べを受けているのもあった。
 半蔵らはかなりの時を待った。そのうちに、
「髪長《かみなが》、御一人《ごいちにん》。」
 と乗り物のそばで起こる声を聞いた。駕籠で来た婦人はいくらかの袖《そで》の下《した》を番人の妻に握らせて、型のように通行を許されたのだ。半蔵らの順番が来た。調べ所の壁に掛かる突棒《つくぼう》、さす叉《また》なぞのいかめしく目につくところで、階段の下に手をついて、かねて用意して来た手形を役人たちの前にささげるだけで済んだ。
 菖助にも別れを告げて、半蔵がもう一度関所の方を振り返った時は、いかにすべてが形式的であるかをそこに見た。
 鳥居峠《とりいとうげ》はこの関所から宮《みや》の越《こし》、藪原
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