斎がそこに眠っていた。あだかも、自分で開拓した山村の発展と古い街道の運命とを長い目でそこにながめ暮らして来たかのように。
寿平次は半蔵に言った。
「いかにも昔の人のお墓らしいねえ。」
「この戒名《かいみょう》は万福寺を建立《こんりゅう》した記念でしょう。まだこのほかにも、村の年寄りの集まるところがなくちゃ寂しかろうと言って、薬師堂を建てたのもこの先祖だそうですよ。」
二人の話は尽きなかった。
裏側から見える村の眺望《ちょうぼう》は、その墓場の前の位置から、杉の木立《こだ》ちの間にひらけていた。半蔵は寿平次と一緒に青い杉の葉のにおいをかぎながら、しばらくそこに立ってながめた。そういう彼自身の内部《なか》には、父から許された旅のことを考えて見たばかりでも、もはや別の心持ちが湧《わ》き上がって来た。その心持ちから、彼は住み慣れた山の中をいくらかでも離れて見るようにして、あそこに柿《かき》の梢《こずえ》がある、ここに白い壁があると、寿平次にさして言って見せた。恵那山《えなさん》のふもとに隠れている村の眺望《ちょうぼう》は、妻籠《つまご》から来て見る寿平次をも飽きさせなかった。
「寿平次さん、旅に出る前にもう一度ぐらいあえましょうか。」
「いろいろな打ち合わせは手紙でもできましょう。」
「なんだかわたしは夢のような気がする。」
こんな言葉をかわして置いて、その日の午後に寿平次は妻籠をさして帰って行った。
長いこと見聞の寡《すくな》いことを嘆き、自分の固陋《ころう》を嘆いていた半蔵の若い生命《いのち》も、ようやく一歩《ひとあし》踏み出して見る機会をとらえた。その時になって見ると、江戸は大地震後一年目の復興最中である。そこには国学者としての平田|鉄胤《かねたね》もいる。鉄胤は篤胤大人《あつたねうし》の相続者である。かねて平田篤胤没後の門人に加わることを志していた半蔵には、これは得がたい機会でもある。のみならず、横須賀海岸の公郷村《くごうむら》とは、黒船上陸の地点から遠くないところとも聞く。半蔵の胸はおどった。
[#改頁]
第三章
一
「蜂谷《はちや》君、近いうちに、自分は江戸から相州三浦方面へかけて出発する。妻の兄、妻籠《つまご》本陣の寿平次と同行する。この旅は横須賀在の公郷村《くごうむら》に遠い先祖の遺族を訪《たず》ねるためであるが、江戸をも見たい。自分は長いことこもり暮らした山の中を出て、初めて旅に上ろうとしている。」
こういう意味の手紙を半蔵は中津川にある親しい学友の蜂谷香蔵あてに書いた。
「君によろこんでもらいたいことがある。自分はこの旅で、かねての平田入門の志を果たそうとしている。最近に自分は佐藤信淵《さとうのぶひろ》の著書を手に入れて、あのすぐれた農学者が平田|大人《うし》と同郷の人であることを知り、また、いかに大人《うし》の深い感化を受けた人であるかをも知った。本居《もとおり》、平田諸大人の国学ほど世に誤解されているものはない。古代の人に見るようなあの直《す》ぐな心は、もう一度この世に求められないものか。どうかして自分らはあの出発点に帰りたい。そこからもう一度この世を見直したい。」
という意味をも書き添えた。
馬籠《まごめ》のような狭い片田舎《かたいなか》では半蔵の江戸行きのうわさが村のすみまでもすぐに知れ渡った。半蔵が幼少な時分からのことを知っていて、遠い旅を案じてくれる乳母《うば》のおふきのような婆《ばあ》さんもある。おふきは半蔵を見に来た時に言った。
「半蔵さま、男はそれでもいいぞなし。どこへでも出かけられて。まあ、女の身になって見さっせれ。なかなかそんなわけにいかすか。おれも山の中にいて、江戸の夢でも見ずかい。この辺鄙《へんぴ》な田舎には、お前さま、せめて一生のうちに名古屋でも見て死にたいなんて、そんなことを言う女もあるに。」
江戸をさして出発する前に、半蔵は平田入門のことを一応は父にことわって行こうとした。平田篤胤はすでに故人であったから、半蔵が入門は先師没後の門人に加わることであった。それだけでも彼は一層自分をはっきりさせることであり、また同門の人たちと交際する上にも多くの便宜があろうと考えたからで。
父、吉左衛門《きちざえもん》はもう長いことこの忰《せがれ》を見まもって来て、行く行く馬籠の本陣を継ぐべき半蔵が寝食を忘れるばかりに平田派の学問に心を傾けて行くのを案じないではなかった。しかし吉左衛門は根が好学の人で、自分で学問の足りないのを嘆いているくらいだから、
「お前の学問好きも、そこまで来たか。」
と言わないばかりに半蔵の顔をながめて、結局子の願いを容《い》れた。
当時平田派の熱心な門人は全国を通じて数百人に上ると言われ、南信から東|美濃《みの》の地方へかけてもその流れをくむものは少なくない。篤胤ののこした仕事はおもに八人のすぐれた弟子《でし》に伝えられ、その中でも特に選ばれた養嗣《ようし》として平田家を継いだのが当主|鉄胤《かねたね》であった。半蔵が入門は、中津川の宮川寛斎《みやがわかんさい》の紹介によるもので、いずれ彼が江戸へ出た上は平田家を訪《たず》ねて、鉄胤からその許しを得ることになっていた。
「お父《とっ》さんに賛成していただいて、ほんとにありがたい。長いこと私はこの日の来るのを待っていたようなものですよ。」
と半蔵は先輩を慕う真実を顔にあらわして言った。同じ道を踏もうとしている中津川の浅見景蔵も、蜂谷香蔵も、さぞ彼のためによろこんでくれるだろうと父に話した。
「まあ、何も試みだ。」
と吉左衛門は持ち前の大きな本陣鼻の上へしわを寄せながら言った。父は半蔵からいろいろと入門の手続きなぞを聞いたのみで、そう深入りするなとも言わなかった。
安政の昔は旅も容易でなかった。木曾谷の西のはずれから江戸へ八十三里、この往復だけにも百六十六里の道は踏まねばならない。その間、峠を四つ越して、関所を二つも通らねばならない。吉左衛門は関西方面に明るいほど東の方の事情に通じてもいなかったが、それでも諸街道問屋の一人《ひとり》として江戸の道中奉行所《どうちゅうぶぎょうしょ》へ呼び出されることがあって、そんな用向きで二、三度は江戸の土を踏んだこともある。この父は、いろいろ旅の心得になりそうなことを子に教えた。寿平次のようなよい連れがあるにしても、若い者|二人《ふたり》ぎりではどうあろうかと言った。遠く江戸から横須賀辺までも出かけるには、伴《とも》の男を一人連れて行けと勧めた。当時の旅行者が馬や人足を雇い、一人でも多く連れのあるのをよろこび、なるべく隊伍《たいご》をつくるようにしてこの街道を往《い》ったり来たりするのも、それ相応の理由がなくてはかなわぬことを父は半蔵に指摘して見せた。
「ひとり旅のものは宿屋でも断わられるぜ。」
とも注意した。
かねて妻籠の本陣とも打ち合わせの上、出発の日取りも旧暦の十月上旬に繰りあげてあった。いよいよその日も近づいて、継母のおまんは半蔵のために青地《あおじ》の錦《にしき》の守り袋を縫い、妻のお民は晒木綿《さらし》の胴巻きなぞを縫ったが、それを見る半蔵の胸にはなんとなく前途の思いがおごそかに迫って来た。遠く行くほどのものは、河止《かわど》めなぞの故障の起こらないかぎり、たとい強い風雨を冒しても必ず予定の宿《しゅく》まではたどり着けと言われているころだ。遊山《ゆさん》半分にできる旅ではなかった。
「佐吉さん、お前は半蔵さまのお供だそうなのい。」
「あい、半蔵さまもそう言ってくれるし、大旦那《おおだんな》からもお許しが出たで。」
おふきはだれよりも先に半蔵の門出《かどで》を見送りに来て、もはや本陣の囲炉裏ばたのところで旅じたくをしている下男の佐吉を見つけた。佐吉は雇われて来てからまだ年も浅く、半蔵といくつも違わないくらいの若さであるが、今度江戸への供に選ばれたことをこの上もないよろこびにして、留守中主人の家の炉で焚《た》くだけの松薪《まつまき》なぞはすでに山から木小屋へ運んで来てあった。
いよいよ出発の時が来た。半蔵は青い河内木綿《かわちもめん》の合羽《かっぱ》を着、脚絆《きゃはん》をつけて、すっかり道中姿になった。旅の守り刀は綿更紗《めんざらさ》の袋で鍔元《つばもと》を包んで、それを腰にさした。
「さあ、これだ。これさえあれば、どんな関所でも通られる。」
と吉左衛門は言って、一枚の手形《てがた》を半蔵の前に置いた。関所の通り手形だ。それには安政三年十月として、宿役人の署名があり、馬籠宿の印が押してある。
「このお天気じゃ、あすも霜でしょう。半蔵も御苦労さまだ。」
という継母にも、女の子のお粂《くめ》を抱きながら片手に檜木笠《ひのきがさ》を持って来てすすめる妻にも別れを告げて、やがて半蔵は勇んで家を出た。おふきは、目にいっぱい涙をためながら、本陣の女衆と共に門口に出て見送った。
峠には、組頭《くみがしら》平助の家がある。名物|栗《くり》こわめしの看板をかけた休み茶屋もある。吉左衛門はじめ、組頭|庄兵衛《しょうべえ》、そのほか隣家の鶴松《つるまつ》のような半蔵の教え子たちは、峠の上まで一緒に歩いた。当時の風習として、その茶屋で一同別れの酒をくみかわして、思い思いに旅するものの心得になりそうなことを語った。出発のはじめはだれしも心がはやって思わず荒く踏み立てるものである、とかくはじめは足をたいせつにすることが肝要だ、と言うのは庄兵衛だ。旅は九日路《ここのかじ》のものなら、十日かかって行け、と言って見せるのはそこへ来て一緒になった平助だ。万福寺の松雲和尚さまが禅僧らしい質素な法衣に茶色の袈裟《けさ》がけで、わざわざ見送りに来たのも半蔵の心をひいた。
「夜道は気をつけるがいいぜ。なるべく朝は早く立つようにして、日の暮れるまでには次ぎの宿《しゅく》へ着くようにするがいいぜ。」
この父の言葉を聞いて、間もなく半蔵は佐吉と共に峠の上から離れて行った。この山地には俗に「道知らせ」と呼んで、螢《ほたる》の形したやさしい虫があるが、その青と紅のあざやかな色の背を見せたやつまでが案内顔に、街道を踏んで行く半蔵たちの行く先に飛んだ。
隣宿|妻籠《つまご》の本陣には寿平次がこの二人《ふたり》を待っていた。その日は半蔵も妻籠泊まりときめて、一夜をお民の生家《さと》に送って行くことにした。寿平次を見るたびに半蔵の感ずることは、よくその若さで本陣|庄屋《しょうや》問屋《といや》三役の事務を処理して行くことであった。寿平次の部屋《へや》には、先代からつけて来たという覚え帳がある。諸大名宿泊のおりの人数、旅籠賃《はたごちん》から、入り用の風呂《ふろ》何本、火鉢《ひばち》何個、燭台《しょくだい》何本というようなことまで、事こまかに記《しる》しつけてある。当時の諸大名は、各自に寝具、食器の類《たぐい》を携帯して、本陣へは部屋代を払うというふうであったからで。寿平次の代になってもそんなめんどうくさいことを一々書きとめて、後日の参考とすることを怠っていない。半蔵が心深くながめたのもその覚え帳だ。
「寿平次さん、今度の旅は佐吉に供をさせます。そのつもりで馬籠から連れて来ました。あれも江戸を見たがっていますよ。君の荷物はあれにかつがせてください。」
この半蔵の言葉も寿平次をよろこばせた。
翌朝、佐吉はだれよりも一番早く起きて、半蔵や寿平次が目をさましたころには、二足の草鞋《わらじ》をちゃんとそろえて置いた。自分用の檜木笠《ひのきがさ》、天秤棒《てんびんぼう》まで用意した。それから囲炉裏ばたにかしこまって、主人らのしたくのできるのを待った。寿平次は留守中のことを脇《わき》本陣の扇屋《おうぎや》の主人、得右衛門《とくえもん》に頼んで置いて、柿色《かきいろ》の地《じ》に黒羅紗《くろらしゃ》の襟《えり》のついた合羽《かっぱ》を身につけた。関所の通り手形も半蔵と同じように用意した。
妻籠の隠居はもういい年のおばあさんで、孫にあたる寿平次をそれまでに
前へ
次へ
全48ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング