ごめ》の本陣の入り口には、伴《とも》を一人《ひとり》連れた訪問の客があった。
「妻籠《つまご》からお客さまが見えたぞなし。」
 という下女の声を聞きつけて、お民は奥から囲炉裏《いろり》ばたへ飛んで出て来て見た。兄の寿平次だ。
「まあ、兄さん、よくお出かけでしたねえ。」
 とお民は言って、奥にいる姑《しゅうとめ》のおまんにも、店座敷にいる半蔵にもそれと知らせた。広い囲炉裏ばたは、台所でもあり、食堂でもあり、懇意なものの応接間でもある。山家らしい焚火《たきび》で煤《すす》けた高い屋根の下、黒光りのするほど古い太い柱のそばで、やがて主客の挨拶《あいさつ》があった。
「これさ。そんなところに腰掛けていないで、草鞋《わらじ》でもおぬぎよ。」
 おまんは本陣の「姉《あね》さま」らしい調子で、寿平次の供をして来た男にまで声をかけた。二里ばかりある隣村からの訪問者でも、供を連れて山路《やまみち》を踏んで来るのが当時の風習であった。ちょうど、木曾路は山の中に多い栗《くり》の落ちるころで、妻籠から馬籠までの道は楽しかったと、供の男はそんなことをおまんにもお民にも語って見せた。
 間もなくお民は明るい仲の間を片づけて、秋らしい西の方の空の見えるところに席をつくった。馬籠と妻籠の両本陣の間には、宿場の連絡をとる上から言っても絶えず往来がある。半蔵が父の代理として木曾福島の役所へ出張するおりなぞは必ず寿平次の家を訪れる。その日は半蔵もめずらしくゆっくりやって来てくれた寿平次を自分の家に迎えたわけだ。
「まず、わたしの失敗話《しくじりばなし》から。」
 と寿平次が言い出した。
 お民は仲の間と囲炉裏ばたの間を往《い》ったり来たりして、茶道具なぞをそこへ持ち運んで来た。その時、寿平次は言葉をついで、
「ほら、この前、お訪《たず》ねした日ですねえ。あの帰りに、藤蔵《とうぞう》さんの家の上道を塩野へ出ましたよ。いろいろな細い道があって、自分ながらすこし迷ったかと思いますね。それから林の中の道を回って、下り坂の平蔵さんの家の前へ出ました。狸《たぬき》にでも化かされたように、ぼんやり妻籠へ帰ったのが八つ時《どき》ごろでしたさ。」
 半蔵もお民も笑い出した。
 寿平次はお民と二人《ふたり》ぎりの兄妹《きょうだい》で、その年の正月にようやく二十五歳|厄除《やくよ》けのお日待《ひまち》を祝ったほどの年ごろである。先代が木曾福島へ出張中に病死してからは、早く妻籠の本陣の若主人となっただけに、年齢《とし》の割合にはふけて見え、口のききようもおとなびていた。彼は背《せい》の低い男で、肩の幅で着ていた。一つ上の半蔵とそこへ対《むか》い合ったところは、どっちが年長《としうえ》かわからないくらいに見えた。年ごろから言っても、二人はよい話し相手であった。
「時に、半蔵さん、きょうはめずらしい話を持って来ました。」と寿平次は目をかがやかして言った。
「どうもこの話は、ただじゃ話せない。」
「兄さんも、勿体《もったい》をつけること。」とお民はそばに聞いていて笑った。
「お民、まあなんでもいいから、お父《とっ》さんやお母《っか》さんを呼んで来ておくれ。」
「兄さん、お喜佐さんも呼んで来ましょうか。あの人も仙十郎《せんじゅうろう》さんと別れて、今じゃ家にいますから。」
「それがいい、この話はみんなに聞かせたい。」


「大笑い。大笑い。」
 吉左衛門はちょうど屋外《そと》から帰って来て、まず半蔵の口から寿平次の失敗話《しくじりばなし》というのを聞いた。
「お父《とっ》さん、寿平次さんは塩野から下り坂の方へ出たと言うんですがね、どこの林をそんなに歩いたものでしょう。」
「きっと梅屋林の中だぞ。寿平次さんも狸《たぬき》に化かされたか。そいつは大笑いだ。」
「山の中らしいお話ですねえ。」
 とおまんもそこへ来て言い添えた。その時、お喜佐も挨拶《あいさつ》に来て、母のそばにいて、寿平次の話に耳を傾けた。
「兄さん、すこし待って。」
 お民は別の部屋《へや》に寝かして置いた乳呑児《ちのみご》を抱きに行って来た。目をさまして母親を探《さが》す子の泣き声を聞きつけたからで。
「へえ、粂《くめ》を見てやってください。こんなに大きくなりました。」
「おゝ、これはよい女の子だ。」
「寿平次さん、御覧なさい。もうよく笑いますよ。女の子は知恵のつくのも早いものですねえ。」
 とおまんは言って、お民に抱かれている孫娘の頭をなでて見せた。
 その日、寿平次が持って来た話というは、供の男を連れて木曾路を通り過ぎようとしたある旅人が妻籠の本陣に泊まり合わせたことから始まる。偶然にも、その客は妻籠本陣の定紋《じょうもん》を見つけて、それが自分の定紋と同じであることを発見する。※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]《か》に木瓜《もっこう》がそれである。客は主人を呼びよせて物を尋ねようとする。そこへ寿平次が挨拶に出る。客は定紋の暗合に奇異な思いがすると言って、まだこのほかに替え紋はないかと尋ねる。丸《まる》に三《みっ》つ引《びき》がそれだと答える。客はいよいよ不思議がって、ここの本陣の先祖に相州《そうしゅう》の三浦《みうら》から来たものはないかと尋ねる。答えは、そのとおり。その先祖は青山|監物《けんもつ》とは言わなかったか、とまた客が尋ねる。まさにそのとおり。その時、客は思わず膝《ひざ》を打って、さてさて世には不思議なこともあればあるものだという。そういう自分は相州三浦に住む山上七郎左衛門《やまがみしちろうざえもん》というものである。かねて自分の先祖のうちには、分家して青山監物と名のった人があると聞いている。その人が三浦から分かれて、木曾の方へ移り住んだと聞いている。して見ると、われわれは親類である。その客の言葉は、寿平次にとっても深い驚きであった。とうとう、一夜の旅人と親類の盃《さかずき》までかわして、系図の交換と再会の日とを約束して別れた。この奇遇のもとは、妻籠と馬籠の両青山家に共通な※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]《か》に木瓜《もっこう》と、丸に三つ引《びき》の二つの定紋からであった。それから系図を交換して見ると、二つに割った竹を合わせたようで、妻籠の本陣なぞに伝わらなかった祖先が青山監物以前にまだまだ遠く続いていることがわかったという。
「これにはわたしも驚かされましたねえ。自分らの先祖が相州の三浦から来たことは聞いていましたがね、そんな古い家がまだ立派に続いているとは思いませんでしたねえ。」と寿平次が言い添えて見せた。
「ハーン。」吉左衛門は大きな声を出してうなった。
「寿平次さん、吾家《うち》のこともそのお客に話してくれましたか。」と半蔵が言った。
「話したとも。青山監物に二人の子があって、兄が妻籠の代官をつとめたし、弟は馬籠の代官をつとめたと話して置いたさ。」
 何百年と続いて来た青山の家には、もっと遠い先祖があり、もっと古い歴史があった。しかも、それがまだまだ立派に生きていた。おまん、お民、お喜佐、そこに集まっている女たちも皆何がなしに不思議な思いに打たれて、寿平次の顔を見まもっていた。
「その山上さんとやらは、どんな人柄のお客さんでしたかい。」とおまんが寿平次にきいた。
「なかなか立派な人でしたよ。なんでも話の様子では、よほど古い家らしい。相州の方へ帰るとすぐ系図と一緒に手紙をくれましてね、ぜひ一度|訪《たず》ねて来てくれと言ってよこしましたよ。」
「お民、店座敷へ行って、わたしの机の上にある筆と紙を持っといで。」半蔵は妻に言いつけて置いて、さらに寿平次の方を見て言った。「もう一度、その山上という人の住所を言って見てくれませんか。忘れないように、書いて置きたいと思うから。」
 半蔵は紙をひろげて、まだ若々しくはあるがみごとな筆で、寿平次の言うとおりを写し取った。
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相州三浦、横須賀《よこすか》在、公郷《くごう》村
         山上七郎左衛門
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「寿平次さん。」と半蔵はさらに言葉をつづけた。「それで君は――」
「だからさ。半蔵さんと二人《ふたり》で、一つその相州三浦を訪《たず》ねて見たらと思うのさ。」
「訪ねて行って見るか。えらい話になって来た。」
 しばらく沈黙が続いた。
「山上の方の系図も、持って来て見せてくださるとよかった。」
「あとから届けますよ。あれで見ると、青山の家は山上から分かれる。山上は三浦家から出ていますね。つまりわたしたちの遠い祖先は鎌倉《かまくら》時代に活動した三浦一族の直系らしい。」
「相州三浦の意味もそれで読める。」と吉左衛門は言葉をはさんだ。
「寿平次さん、もし相州の方へ出かけるとすれば、君はいつごろのつもりなんですか。」
「十月の末あたりはどうでしょう。」
「そいつはおれも至極《しごく》賛成だねえ。」と吉左衛門も言い出した。「半蔵も思い立って出かけて行って来るがいいぞ。江戸も見て来るがいい――ついでに、日光あたりへも参詣《さんけい》して来るがいい。」
 その晩、おまんは妻籠から来た供の男だけを帰らせて、寿平次を引きとめた。半蔵は店座敷の方へ寿平次を誘って、昔風な行燈《あんどん》のかげでおそくまで話した。青山氏系図として馬籠の本陣に伝わったものをもそこへ取り出して来て、二人でひろげて見た。その中にはこの馬籠の村の開拓者であるという祖先青山道斎のことも書いてあり、家中女子ばかりになった時代に妻籠の本陣から後見《こうけん》に来た百助《ももすけ》というような隠居のことも書いてある。道斎から見れば、半蔵は十七代目の子孫にあたった。その晩は半蔵は寿平次と枕《まくら》を並べて寝たが、父から許された旅のことなぞが胸に満ちて、よく眠られなかった。


 偶然にも、半蔵が江戸から横須賀の海の方まで出て行って見る思いがけない機会はこんなふうにして恵まれた。翌日、まだ朝のうちに、お民は万福寺の墓地の方へ寿平次と半蔵を誘った。寿平次は久しぶりで墓参りをして行きたいと言い出したからで。お民が夫と共に看病に心を砕いたあの祖母《おばあ》さんももはやそこに長く眠っているからで。
 半蔵と寿平次とは一歩《ひとあし》先に出た。二人は本陣の裏木戸から、隣家の伏見屋の酒蔵《さかぐら》について、暗いほど茂った苦竹《まだけ》と淡竹《はちく》の藪《やぶ》の横へ出た。寺の方へ通う静かな裏道がそこにある。途中で二人はお民を待ち合わせたが、煙の立つ線香や菊の花なぞを家から用意して来たお民と、お粂《くめ》を背中にのせた下女とが細い流れを渡って、田圃《たんぼ》の間の寺道を踏んで来るのが見えた。
 小山の上に立つ万福寺は村の裏側から浅い谷一つ隔てたところにある。墓地はその小川に添うて山門を見上げるような傾斜の位置にある。そこまで行くと、墓地の境内もよく整理されていて、以前の住職の時代とは大違いになった。村の子供を集めてちいさく寺小屋をはじめている松雲和尚のもとへは、本陣へ通学することを遠慮するような髪結いの娘や、大工の忰《せがれ》なぞが手習い草紙を抱いて、毎日|通《かよ》って来ているはずだ。隠れたところに働く和尚の心は墓地の掃除《そうじ》にまでよく行き届いていた。半蔵はその辺に立てかけてある竹箒《たけぼうき》を執って、古い墓石の並んだ前を掃こうとしたが、わずかに落ち散っている赤ちゃけた杉の古葉を取り捨てるぐらいで用は足りた。和尚の心づかいと見えて、その辺の草までよくむしらせてあった。すべて清い。
 やがて寿平次もお民も亡《な》くなった隠居の墓の前に集まった。
「兄さん、おばあさんの名は生きてる時分からおじいさんと並べて刻んであったんですよ。ただそれが赤くしてあったんですよ。」
 とお民は言って、下女の背中にいるお粂の方をも顧みて、
「御覧、ののさんだよ。」
 と言って見せた。
 古く苔蒸《こけむ》した先祖の墓石は中央の位置に高く立っていた。何百年の雨にうたれ風にもまれて来たその石の面《おもて》には、万福寺殿昌屋常久禅定門の文字が読まれる。青山道
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