の筆記録から、三百部を限りとして絶版になった『毀誉《きよ》相半ばする書』のような気吹《いぶき》の舎《や》の深い消息までも、不便な山の中で手に入れているほどの熱心さだ。平田篤胤は天保《てんぽう》十四年に没している故人で、この黒船騒ぎなぞをもとより知りようもない。あれほどの強さに自国の学問と言語の独立を主張した人が、嘉永《かえい》安政の代に生きるとしたら――すくなくもあの先輩はどうするだろうとは、半蔵のような青年の思いを潜めなければならないことであった。
新しい機運は動きつつあった。全く気質を相異《あいこと》にし、全く傾向を相異にするようなものが、ほとんど同時に踏み出そうとしていた。長州《ちょうしゅう》萩《はぎ》の人、吉田松陰《よしだしょういん》は当時の厳禁たる異国への密航を企てて失敗し、信州|松代《まつしろ》の人、佐久間象山《さくましょうざん》はその件に連座して獄に下ったとのうわさすらある。美濃の大垣《おおがき》あたりに生まれた青年で、異国の学問に志し、遠く長崎の方へ出発したという人の話なぞも、決してめずらしいことではなくなった。
「黒船。」
雪で明るい部屋《へや》の障子に近く行って
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