てくれる人はなかったんですもの。」
「お前は機《はた》でも織っていてくれれば、それでいいよ。」
お民は容易にすすり泣きをやめなかった。半蔵は思いがけない涙を聞きつけたというふうに、そばへ寄って妻をいたわろうとすると、
「教えて。」
と言いながら、しばらくお民は夫の膝《ひざ》に顔をうずめていた。
ちょうど本陣では隠居が病みついているころであった。あの婆《ばあ》さんももう老衰の極度にあった。
「おい、お民、お前は祖母《おばあ》さんをよく看《み》てくれよ。」
と言って、やがて半蔵は隠居の臥《ね》ている部屋《へや》の方へお民を送り、自分でも気を取り直した。
いつでも半蔵が心のさみしいおりには、日ごろ慕っている平田|篤胤《あつたね》の著書を取り出して見るのを癖のようにしていた。『霊《たま》の真柱《まはしら》』、『玉だすき』、それから講本の『古道大意』なぞは読んでも読んでも飽きるということを知らなかった。大判の薄藍色《うすあいいろ》の表紙から、必ず古紫の糸で綴《と》じてある本の装幀《そうてい》までが、彼には好ましく思われた。『静《しず》の岩屋《いわや》』、『西籍概論《さいせきがいろん》』
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