できないじゃありませんか。」
新婚のそもそもは、娘の昔に別れを告げたばかりのお民にとって、むしろ苦痛でさえもあった。それが新しいよろこびに変わって来たころから、とかく店座敷を離れかねている。いつのまにか半蔵の膝《ひざ》はお民の方へ向いた。彼はまるで尻餅《しりもち》でもついたように、後ろ手を畳の上に落として、それで身をささえながら、妻籠から持って来たという記念の雛《ひな》人形の話なぞをするお民の方をながめた。手織り縞《じま》でこそあれ、当時の風俗のように割合に長くひいた裾《すそ》の着物は彼女に似合って見える。剃《そ》り落とした眉《まゆ》のあとも、青々として女らしい。半蔵の心をよろこばせたのは、ことにお民の手だ。この雪に燃えているようなその娘らしい手だ。彼は妻と二人ぎりでいて、その手に見入るのを楽しみに思った。
実に突然に、お民は夫のそばですすり泣きを始めた。
「ほら、あなたはよくそう言うじゃありませんか。わたしに学問の話なぞをしても、ちっともわけがわからんなんて。そりゃ、あのお母《っか》さん(姑《しゅうとめ》、おまん)のまねはわたしにはできない。今まで、妻籠の方で、だれもわたしに教え
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