蔵は耳を澄ましながらその物音を聞いて、かねてうわさのあった尾張藩主の江戸出府がいよいよ実現されることを知った。
「尾州の御先荷《おさきに》がもうやって来た。」
 と言って見た。
 宿継ぎ差立《さした》てについて、尾張藩から送られて来た駄賃金《だちんがね》が馬籠の宿だけでも金四十一両に上った。駄賃金は年寄役金兵衛が預かったが、その金高を聞いただけでも今度の通行のかなり大げさなものであることを想像させる。半蔵はうすうす父からその話を聞いて知っていたので、部屋《へや》にじっとしていられなかった。台所に行って顔を洗うとすぐ雪の降る中を屋外《そと》へ出て見ると、会所では朝早くから継立《つぎた》てが始まる。あとからあとからと坂路《さかみち》を上って来る人足たちの後ろには、鈴の音に歩調を合わせるような荷馬の群れが続く。朝のことで、馬の鼻息は白い。時には勇ましいいななきの声さえ起こる。村の宿役人仲間でも一番先に家を出て、雪の中を奔走していたのは問屋の九太夫であった。
 前の年の六月に江戸湾を驚かしたアメリカの異国船は、また正月からあの沖合いにかかっているころで、今度は四隻の軍艦を八、九隻に増して来て、
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