えなさん》を最高の峰としてこの辺一帯の村々を支配して立つような幾つかの山嶽《さんがく》も、その位置からは隠れてよく見えなかったが、遠くかすかに鳴きかわす鶏の声を谷の向こうに聞きつけることはできた。まだ本堂の前の柊《ひいらぎ》も暗い。その時、朝の空気の静かさを破って、澄んだ大鐘の音が起こった。力をこめた松雲の撞《つ》き鳴らす音だ。その音は谷から谷を伝い、畠《はたけ》から畠を匍《は》って、まだ動きはじめない村の水車小屋の方へも、半分眠っているような馬小屋の方へもひびけて行った。

       二

 ある朝、半蔵は妻のそばに目をさまして、街道を通る人馬の物音を聞きつけた。妻のお民は、と見ると、まだ娘のような顔をして、寝心地《ねごこち》のよい春の暁を寝惜しんでいた。半蔵は妻の目をさまさせまいとするように、自分ひとり起き出して、新婚後|二人《ふたり》の居間となっている本陣の店座敷の戸を明けて見た。
 旧暦三月はじめのめずらしい雪が戸の外へ来た。暮れから例年にない暖かさだと言われたのが、三月を迎えてかえってその雪を見た。表庭の塀《へい》の外は街道に接していて、雪を踏んで行く人馬の足音がする。半
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