となく寺も荒れて見える。方丈には、あの隠居和尚が六年もながめ暮らしたような古い壁もあって、そこには達磨《だるま》の画像が帰参の新住職を迎え顔に掛かっていた。
「寺に大地小地なく、住持《じゅうじ》に大地小地あり。」
 この言葉が松雲を励ました。
 松雲は周囲を見回した。彼には心にかかるかずかずのことがあった。当時の戸籍簿とも言うべき宗門帳は寺で預かってある。あの帳面もどうなっているか。位牌堂《いはいどう》の整理もどうなっているか。数えて来ると、何から手を着けていいかもわからないほど種々雑多な事が新住職としての彼を待っていた。毎年の献鉢《けんばち》を例とする開山忌《かいざんき》の近づくことも忘れてはならなかった。彼は考えた。ともかくもあすからだ。朝早く身を起こすために何かの目的を立てることだ。それには二人《ふたり》の弟子《でし》や寺男任せでなしに、まず自分で庭の鐘楼に出て、十八声の大鐘を撞《つ》くことだと考えた。
 翌朝は雨もあがった。松雲は夜の引き明けに床を離れて、山から来る冷たい清水《しみず》に顔を洗った。法鼓《ほうこ》、朝課《ちょうか》はあと回しとして、まず鐘楼の方へ行った。恵那山《
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