出府は三月のはじめに迫っていた。来たる日の通行の混雑を思わせるような街道を踏んで、一同石屋の坂あたりまで帰って行くと、村の宿役人仲間がそこに待ち受けるのにあった。問屋《といや》の九太夫《くだゆう》をはじめ、桝田屋《ますだや》の儀助、蓬莱屋《ほうらいや》の新七、梅屋の与次衛門《よじえもん》、いずれも裃《かみしも》着用に雨傘《あまがさ》をさしかけて松雲の一行を迎えた。
 当時の慣例として、新住職が村へ帰り着くところは寺の山門ではなくて、まず本陣の玄関だ。出家の身としてこんな歓迎を受けることはあながち松雲の本意ではなかったけれども、万事は半蔵が父の計らいに任せた。付き添いとして来た中津川の老和尚の注意もあって、松雲が装束《しょうぞく》を着かえたのも本陣の一室であった。乗り物、先箱《さきばこ》、台傘《だいがさ》で、この新住職が吉左衛門《きちざえもん》の家を出ようとすると、それを見ようとする村の子供たちはぞろぞろ寺の道までついて来た。
 万福寺は小高い山の上にある。門前の墓地に茂る杉《すぎ》の木立《こだ》ちの間を通して、傾斜を成した地勢に並び続く民家の板屋根を望むことのできるような位置にある。松
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