ように聞こえますよ。」
「それでも、まあよいながめですこと。」
「そりゃ馬籠《まごめ》はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気のよい日には、遠い伊吹《いぶき》山まで見えることがありますよ――」
 林も深く谷も深い方に住み慣れたお民は、この馬籠に来て、西の方に明るく開けた空を見た。何もかもお民にはめずらしかった。わずかに二里を隔てた妻籠と馬籠とでも、言葉の訛《なま》りからしていくらか違っていた。この村へ来て味わうことのできる紅《あか》い「ずいき」の漬物《つけもの》なぞも、妻籠の本陣では造らないものであった。


 まだ半蔵夫婦の新規な生活は始まったばかりだ。午後に、おまんは一通り屋敷のなかを案内しようと言って、土蔵の大きな鍵《かぎ》をさげながら、今度は母屋《もや》の外の方へお民を連れ出そうとした。
 炉ばたでは山家らしい胡桃《くるみ》を割る音がしていた。おふきは二人の下女を相手に、堅い胡桃の核《たね》を割って、御幣餅《ごへいもち》のしたくに取りかかっていた。その時、上がり端《はな》にある杖《つえ》をさがして、おまんやお民と一緒に裏の隠居所まで歩こうと言い出したのは隠
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