たびに、お民は目を細くして、これから長く姑《しゅうとめ》として仕えなければならない人のするままに任せていた。
「熊《くま》や。」
とその時、おまんはそばへ寄って来る黒毛の猫《ねこ》の名を呼んだ。熊は本陣に飼われていて、だれからもかわいがられるが、ただ年老いた隠居からは憎まれていた。隠居が熊を憎むのは、みんなの愛がこの小さな動物にそそがれるためだともいう。どうかすると隠居は、おまんや下女たちの見ていないところで、人知れずこの黒猫に拳固《げんこ》を見舞うことがある。おまんはお民の髪を結いながらそんな話までして、
「吾家《うち》のおばあさんも、あれだけ年をとったかと思いますよ。」
とも言い添えた。
やがて本陣の若い「御新造《ごしんぞ》」に似合わしい髪のかたちができ上がった。儀式ばった晴れの装いはとれて、さっぱりとした蒔絵《まきえ》の櫛《くし》なぞがそれに代わった。林檎《りんご》のように紅《あか》くて、そして生《い》き生きとしたお民の頬《ほお》は、まるで別の人のように鏡のなかに映った。
「髪はできました。これから部屋《へや》の案内です。」
というおまんのあとについて、間もなくお民は家の
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