」
おまんは奥の坪庭に向いた小座敷のところへお民を呼んだ。妻籠《つまご》の本陣から来た娘を自分の嫁として、「お民、お民」と名を呼んで見ることもおまんにはめずらしかった。おとなの世界をのぞいて見たばかりのようなお民は、いくらか羞《はじらい》を含みながら、十七の初島田《はつしまだ》の祝いのおりに妻籠の知人から贈られたという櫛箱《くしばこ》なぞをそこへ取り出して来ておまんに見せた。
「どれ。」
おまんは襷掛《たすきが》けになって、お民を古風な鏡台に向かわせ、人形でも扱うようにその髪をといてやった。まだ若々しく、娘らしい髪の感覚は、おまんの手にあまるほどあった。
「まあ、長い髪の毛だこと。そう言えば、わたしも覚えがあるが、これで眉《まゆ》でも剃《そ》り落とす日が来てごらん――あの里帰りというものは妙に昔の恋しくなるものですよ。もう娘の時分ともお別れですねえ。女はだれでもそうしたものですからねえ。」
おまんはいろいろに言って見せて、左の手に油じみた髪の根元を堅く握り、右手に木曾名物のお六櫛《ろくぐし》というやつを執った。額《ひたい》から鬢《びん》の辺へかけて、梳《す》き手《て》の力がはいる
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