門や半蔵のところへ油じみた台箱《だいばこ》をさげて通《かよ》って来る髪結い直次《なおじ》までが、その日は羽織着用でやって来て、膳《ぜん》の前にかしこまった。
 町内の小前《こまえ》のものの前に金兵衛、髪結い直次の前に仙十郎、涙を流してその日の来たことを喜んでいるようなおふき婆《ばあ》さんの前には吉左衛門がすわって、それぞれ取り持ちをするころは、酒も始まった。吉左衛門はおふきの前から、出入りの百姓たちの前へ動いて、
「さあ、やっとくれや。」
 とそこにある銚子《ちょうし》を持ち添えて勧めた。百姓の一人《ひとり》は膝《ひざ》をかき合わせながら、
「おれにかなし。どうも大旦那《おおだんな》にお酌《しゃく》していただいては申しわけがない。」
 隣席にいるほかの百姓が、その時、吉左衛門に話しかけた。
「大旦那《おおだんな》――こないだの上納金のお話よなし。ほかの事とも違いますから、一同申し合わせをして、お受けをすることにしましたわい。」
「あゝ、あの国恩金のことかい。」
「それが大旦那、百姓はもとより、豆腐屋、按摩《あんま》まで上納するような話ですで、おれたちも見ていられすか。十八人で二両二分と
前へ 次へ
全473ページ中68ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング