ずか、なし。」
 そこへ金兵衛も奥から顔を出して、一緒に妻籠から来る人たちのうわさをした。
「一昨日《おととい》の晩でさ。」と金兵衛は言った。「桝田屋《ますだや》の儀助さんが夜行で福島へ出張したところが、往還の道筋にはすこしも雪がない。茶屋へ寄って、店先へ腰掛けても、凍えるということがない。どうもこれは世間一統の陽気でしょう。あの儀助さんがそんな話をしていましたっけ。」
「金兵衛さん――前代|未聞《みもん》の冬ですかね。」
「いや、全く。」
 日の暮れるころには、村の人たちは本陣の前の街道に集まって来て、梅屋の格子《こうし》先あたりから問屋の石垣《いしがき》の辺へかけて黒山を築いた。土地の風習として、花嫁を載せて来た駕籠《かご》はいきなり門の内へはいらない。峠の上まで出迎えたものを案内にして、寿平次らの一行はまず門の前で停《と》まった。提灯《ちょうちん》の灯《ひ》に映る一つの駕籠を中央にして、木曾の「なかのりさん」の唄《うた》が起こった。荷物をかついで妻籠から供をして来た数人のものが輪を描きながら、唄の節《ふし》につれて踊りはじめた。手を振り腰を動かす一つの影の次ぎには、またほかの影が
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