で、それで代官造りさ。今の町田《まちだ》がそれさ。その時分には、毎年五月に村じゅうの百姓を残らず集めて植え付けをした。その日に吾家《うち》から酒を一斗出した。酔って田圃《たんぼ》の中に倒れるものがあれば、その年は豊年としたものだそうだ。」
 この話もよく出た。
 吉左衛門の代になって、本陣へ出入りの百姓の家は十三軒ほどある。その多くは主従の関係に近い。吉左衛門が隣家の金兵衛とも違って、村じゅうの百姓をほとんど自分の子のように考えているのも、由来する源は遠かった。

       二

「また、黒船ですぞ。」
 七月の二十六日には、江戸からの御隠使《ごおんし》が十二代将軍徳川|家慶《いえよし》の薨去《こうきょ》を伝えた。道中奉行《どうちゅうぶぎょう》から、普請鳴り物類一切停止の触れも出た。この街道筋では中津川の祭礼のあるころに当たったが、狂言もけいこぎりで、舞台の興行なしに謹慎の意を表することになった。問屋九太夫の「また、黒船ですぞ」が、吉左衛門をも金兵衛をも驚かしたのは、それからわずかに三日過ぎのことであった。
「いったい、きょうは幾日です。七月の二十九日じゃありませんか。公儀の御隠使
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