あるにしても、将軍家としてはわずか十日ばかりの滞在の予定で京都を辞し去ることはできない状態にあった。
 しかし、その年の二月から、遠く横浜の港の方には、十一隻から成るイギリス艦隊の碇泊《ていはく》していたことを見のがしてはならない。それらの艦隊がややもすれば自由行動をも執りかねまじき態度を示していたことを見のがしてはならない。それにはいわゆる生麦《なまむぎ》事件なるものを知る必要がある。


 横浜開港以来、足掛け五年にもなる。排外を意味する横浜襲撃が諸浪士によって企てられているとのうわさは幾回となく伝わったばかりでなく、江戸|高輪《たかなわ》東禅寺《とうぜんじ》にある英国公使館は襲われ、外人に対する迫害|沙汰《ざた》も頻々《ひんぴん》として起こった。下田《しもだ》以来の最初の書記として米国公使館に在勤していたヒュウスケンなぞもその犠牲者の一人《ひとり》だ。彼は日米外交のそもそもからハリスと共にその局に当たった人で、日本の国情に対する理解も同情も深かったと言わるるが、江戸|三田《みた》古川橋《ふるかわばし》のほとりで殺害された。これらの外人を保護するため幕府方で外国御用の出役《しゅつや
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