えば、青山君は鉄胤先生に一度あったきりだそうですね。一度あったお弟子でも、十年そばにいるお弟子でも、あの鉄胤先生には同じようだ。君の話もよく出ますよ。」
 この人の残して置いて行った言葉も、半蔵には忘れられなかった。


 もはや、暖かい雨がやって来る。二月の末に京都を発《た》って来たという正香は尾張《おわり》や仙台《せんだい》のような大藩の主人公らまで勅命に応じて上京したことは知るまいが、ちょうどあの正香が夜道を急いで来るころに、この木曾路には二藩主の通行もあった。三千五百人からの尾張の人足が来て馬籠の宿に詰めた。あの時、二百四十匹の継立《つぎた》ての馬を残らず雇い上げなければならなかったほどだ。木曾街道筋の通行は初めてと聞く仙台藩主の場合にも、時節柄同勢やお供は減少という触れ込みでも、千六百人の一大旅行団が京都へ向けてこの宿場を通過した。しかも応接に困難な東北弁で。
「半蔵、お前のところへ来たお客さんも、無事に伊那の小野村まで落ち延びていらしったろうか。」
 こんなうわさをおまんがするころは、そこいらは桃の春だった。一橋慶喜の英断に出た参覲交代制度の変革の結果は、驚かれるほどの勢い
前へ 次へ
全473ページ中416ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング