で中津川から呼ぶ時代も来た。新宅桝田屋の主人はもうただの百姓でもなかった。旅籠屋営業のほかに少しずつ商売などもする町人であった。
二代目惣右衛門はこの夫婦の末子として生まれた。親から仕来《しきた》った百姓は百姓として、惣領《そうりょう》にはまだ家の仕事を継ぐ特権もある。次男三男からはそれも望めなかった。十三、四のころから草刈り奉公に出て、末は雲助《くもすけ》にでもなるか。末子と生まれたものが成人しても、馬追いか駕籠《かご》かきにきまったものとされたほどの時代である。そういう中で、二代目惣右衛門は親のそばにいて、物心づくころから草刈り奉公にも出されなかったというだけでも、親惣右衛門を徳とした。この二代目がまた、親の仕事を幾倍かにひろげた。
人も知るように、当時の諸大名が農民から収めた年貢米《ねんぐまい》の多くは、大坂の方に輸送されて、金銀に替えられた。大坂は米取引の一大市場であった。次第に商法も手広くやるころの二代目惣右衛門は、大坂の米相場にも無関心ではなかった人である。彼はまた、優に千両の無尽にも応じたが、それほど実力を積み蓄えた分限者《ぶげんしゃ》は木曾谷中にも彼のほかにないと言
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