しげもなく投げ出されたばかりでなく、大赦は行なわれる、山陵は修復される、京都の方へ返していいような旧《ふる》い慣例はどしどし廃された。幕府から任命していた皇居九門の警衛までも撤去された。およそ幕府の力にできるようなことは、松平春嶽を中心の人物にし山内容堂を相談役とする新内閣の手で行なわれるようになった。
 封建時代にあるものの近代化は、後世を待つまでもなく、すでにその時に始まって来た。松平春嶽、山内容堂、この二人《ふたり》はそれぞれの立場にあり、領地の事情をも異にしていたが、時代の趨勢《すうせい》に着眼して早くから幕政改革の意見を抱《いだ》いたことは似ていた。その就職以前から幕府に対して同情と理解とを持つことにかけても似ていた。水戸の御隠居、肥前《ひぜん》の鍋島閑叟《なべしまかんそう》、薩摩《さつま》の島津久光の諸公と共に、生前の岩瀬肥後から啓発せらるるところの多かったということも似ていた。あの四十に手が届くか届かないかの若さで早くこの世を去った岩瀬肥後ののこした開国の思想が、その人の死後になってまた働き初めたということにも不思議はない。蕃書《ばんしょ》調所は洋書調所(開成所、後の帝国
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