るためであった。それよりは従来の方針を一変し、大いに破約攘夷を唱うべきことを藩主に説き勧めるためであった。雄藩|擡頭《たいとう》の時機が到ったことは、長いことその機会を待っていた長州人士を雀躍《こおどり》させたからで。
 旅にある藩主はそれほど京都の形勢が激変したとは知らない。まして、そんな旅人が世子《せいし》の内命を帯びて、中津川に自分を待つとは知らない。さきに幕府への建白の結果として、公武間周旋の依頼を幕府から受け、いよいよ正式にその周旋を試みようとして江戸を出発して来たのであった。この大名は、日ごろの競争者で薩摩《さつま》に名高い中将|斎彬《なりあきら》の弟にあたる島津久光《しまづひさみつ》がすでにその勢力を京都の方に扶植し始めたことを知り、さらに勅使|左衛門督《さえもんのかみ》大原|重徳《しげのり》を奉じて東下して来たほどの薩摩人の活躍を想像しながら、その年の六月中旬には諏訪《すわ》にはいった。あだかも痳疹《はしか》流行のころである。一行は諏訪に三日|逗留《とうりゅう》し、同勢四百人ほどをあとに残して置いて、三留野《みどの》泊まりで木曾路を上って来た。馬籠本陣の前まで来ると、そ
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