大老ですら、幕府の一存を楯《たて》にして単独な行動に出ることはできなかった。後には上奏の手続きを執った。井伊大老ですらそのとおりだ。薩長二藩の有志らはいずれも争って京都に入り、あるいは藩主の密書を致《いた》したり、あるいは御剣《ぎょけん》を奉献したりした。
 一庄屋の子としての半蔵から見ると、これは理由のないことでもない。水戸の『大日本史』に、尾張の『類聚日本紀《るいじゅうにほんぎ》』に、あるいは頼《らい》氏の『日本外史』に、大義名分を正そうとした人たちのまいた種が深くもこの国の人々の心にきざして来たのだ。南朝の回想、芳野《よしの》の懐古、楠《くすのき》氏の崇拝――いずれも人の心の向かうところを語っていないものはなかった。そういう中にあって、本居宣長のような先覚者をはじめ、平田一門の国学者が中世の否定から出発して、だんだん帝を求め奉るようになって行ったのは、臣子の情として強い綜合《そうごう》の結果であったが……
 年も文久二年と改まるころには、半蔵はすでに新築のできた本陣の家の方に引き移っていた。吉左衛門やおまんは味噌納屋《みそなや》の二階から、お民はわびしい土蔵の仮住居《かりずまい》
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