ちはしないでしょう。」と金兵衛は言った。「二本さして、青山吉左衛門で通る。どこへ出ても、大威張《おおいば》りだ。」
「まあ、そう言わないでくれたまえ。それよりか、盃《さかずき》でもいただこうじゃありませんか。」
 吉左衛門も酒はいける口であり、それに勧め上手《じょうず》なお玉のお酌《しゃく》で、金兵衛とさしむかいに盃を重ねた。その二階は、かつて翁塚《おきなづか》の供養のあったおりに、落合の宗匠|崇佐坊《すさぼう》まで集まって、金兵衛が先代の記念のために俳席を開いたところだ。そう言えば、吉左衛門や金兵衛の旧《むかし》なじみでもはやこの世にいない人も多い。馬籠の生まれで水墨の山水や花果などを得意にした画家の蘭渓《らんけい》もその一人《ひとり》だ。あの蘭渓も、黒船騒ぎなぞは知らずに亡《な》くなった。
「お玉さんの前ですが。」と吉左衛門は言った。「こうして御酒《ごしゅ》でもいただくと、実に一切を忘れますよ。わたしはよく思い出す。金兵衛さん、ほら、あのアトリ(※[#「けものへん+臈のつくり」、第3水準1−87−81]子鳥)三十羽に、茶漬《ちゃづ》け三杯――」
「それさ。」と金兵衛も思い出したよう
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