った。黒光りのするほどよく拭《ふ》き込んであるその箱梯子も伏見屋らしいものだ。西向きの二階の部屋《へや》には、金兵衛が先代の遺物と見えて、美濃派の俳人らの寄せ書きが灰汁抜《あくぬ》けのした表装にして壁に掛けてある。八人のものが集まって馬籠風景の八つの眺《なが》めを思い思いの句と画の中に取り入れたものである。この俳味のある掛け物の前に行って立つことも、吉左衛門をよろこばせた。
 夕飯。お玉は膳《ぜん》を運んで来た。ほんの有り合わせの手料理ながら、青みのある新しい野菜で膳の上を涼しく見せてある。やがて酒もはじまった。
「吉左衛門さん、何もありませんが召し上がってくださいな。」とお玉が言った。「吾家《うち》の鶴松《つるまつ》も出まして、お世話さまでございます。」
「さあ、一杯やってください。」と言って、金兵衛はお玉を顧みて、「吉左衛門さんはお前、苗字《みょうじ》帯刀御免ということになったんだよ。今までの吉左衛門さんとは違うよ。」
「それはおめでとうございます。」
「いえ。」と吉左衛門は頭をかいて、「苗字帯刀もこう安売りの時世になって来ては、それほどありがたくもありません。」
「でも、悪い気持
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