月以来|頻繁《ひんぱん》な諸大名の通行で、江戸へ向けてこの木曾街道を経由するものに、黒船騒ぎに関係のないものはなかったからで。あるものは江戸湾一帯の海岸の防備、あるものは江戸城下の警固のためであったからで。
 金兵衛は吉左衛門の袖《そで》を引いて言った。
「いや、お帰り早々、いろいろお骨折りで。まあ、おかげでお継立《つぎた》ても済みました。今夜は御苦労呼びというほどでもありませんが、お玉のやつにしたくさせて置きます。あとでおいでを願いましょう。そのかわり、吉左衛門さん、ごちそうは何もありませんよ。」


 酒のさかな。胡瓜《きゅうり》もみに青紫蘇《あおじそ》。枝豆。到来物の畳《たた》みいわし。それに茄子《なす》の新漬《しんづ》け。飯の時にとろろ汁《じる》。すべてお玉の手料理の物で、金兵衛は夕飯に吉左衛門を招いた。
 店座敷も暑苦しいからと、二階を明けひろげて、お玉はそこへ二人《ふたり》の席を設けた。山家風《やまがふう》な風呂《ふろ》の用意もお玉の心づくしであった。招かれて行った吉左衛門は、一風呂よばれたあとのさっぱりとした心持ちで、広い炉ばたの片すみから二階への箱梯子《はこばしご》を登
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