とになった。岩瀬肥後はその主唱者なのだ。水戸はもとより、京都方面まで異議のあろうはずもない。ところがこれには反対の説が出て、血統の近い紀州|慶福《よしとみ》を立てるのが世襲伝来の精神から見て正しいと唱え出した。その声は大奥の深い簾《すだれ》の内からも出、水戸の野心と陰謀を疑う大名有司の仲間からも出た。この形勢をみて取った岩瀬肥後は、血統の近いものを立てるという声を排斥して、年長で賢いものを立てるのが今日《こんにち》の急務であると力説し、老中|奉行《ぶぎょう》らもその説に賛成するものが多く、それを漏れ聞いた国内の有志者たちも皆大いに喜んで、太陽はこれから輝こうと言い合いながら、いずれもその時の来るのを待ち望んだ。意外にも、その上請をしないうちに、将軍は脚気《かっけ》にかかって、わずか五年を徳川十三代の一期として、にわかに薨去《こうきょ》した。岩瀬肥後の極力排斥した慶福《よしとみ》擁立説がまた盛り返して来た日を迎えて見ると、そこに将軍の遺旨を奉じて起《た》ち上がったのが井伊大老その人であったのだ。
 岩瀬肥後の政治|生涯《しょうがい》はその時を終わりとした。水戸の御隠居を始めとして、尾州、
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