たりから枯れがれな太田新田の間の新道を進んだ。
瑞見は遠く蝦夷《えぞ》の方で採薬、薬園、病院、疏水《そすい》、養蚕等の施設を早く目論《もくろ》んでいる時で、函館の新開地にこの横浜を思い比べ、牡丹屋の亭主を顧みてはいろいろと土地の様子をきいた。当時の横浜関内は一羽の蝶《ちょう》のかたちにたとえられる。海岸へ築《つ》き出した二か所の波止場《はとば》はその触角であり、中央の運上所付近はそのからだであり、本町通りと商館の許可地は左右の翅《はね》にあたる。一番左の端にある遊園で、樹木のしげった弁天の境内《けいだい》は、蝶の翅に置く唯一の美しい斑紋《はんもん》とも言われよう。しかしその翅の大部分はまだ田圃《たんぼ》と沼地だ。そこには何か開港一番の思いつきででもあるかのように、およそ八千坪からの敷地から成る大規模な遊女屋の一郭もひらけつつある。横浜にはまだ市街の連絡もなかったから、一丁目ごとに名主を置き、名主の上に総年寄を置き、運上所わきの町会所で一切の用事を取り扱っていると語り聞かせるのも牡丹屋の亭主だ。
やがて、その日同行した五人のものは横浜海岸通りの波止場に近いところへ出た。西洋の船になら
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