「オヤ、これはどうも、お粗末さまでございました。どうかまた、お近いうちに。」
 と手をもみながら言う。江戸生まれで、まだ木曾を知らないというかみさんまでが、隠居のそばにいて、
「ほんとに、木曾のかたはおなつかしい。」
 と別れぎわに言い添えた。
 十一屋のあるところから両国橋まではほんの一歩《ひとあし》だ。江戸のなごりに、隅田川《すみだがわ》を見て行こう、と半蔵が言い出して、やがて三人で河岸の物揚げ場の近くへ出た。早い朝のことで、大江戸はまだ眠りからさめきらないかのようである。ちょうど、渦巻《うずま》き流れて来る隅田川の水に乗って、川上の方角から橋の下へ降《くだ》って来る川船があった。あたりに舫《もや》っている大小の船がまだ半分夢を見ている中で、まず水の上へ活気をそそぎ入れるものは、その船頭たちの掛け声だ。十一屋の隠居の話で、半蔵らはそれが埼玉《さいたま》川越《かわごえ》の方から伊勢町河岸《いせちょうがし》へと急ぐ便船《びんせん》であることを知った。
「日の出だ。」
 言い合わせたようなその声が起こった。三人は互いに雀躍《こおどり》して、本所《ほんじょ》方面の初冬らしい空に登る太陽
前へ 次へ
全473ページ中190ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング