い》りの騒ぎだ。」
「そう言われると、一言《いちごん》もない。」
「さあ、このお天気続きでは、伊勢木《いせぎ》を出さずに済むまいぞ。」
 伊勢木とは、伊勢太神宮へ祈願をこめるための神木《しんぼく》をさす。こうした深い山の中に古くから行なわれる雨乞いの習慣である。よくよくの年でなければこの伊勢木を引き出すということもなかった。
 六月の六日、村民一同は鎌止《かまど》めを申し合わせ、荒町にある氏神の境内に集まった。本陣、問屋をはじめ、宿役人から組頭《くみがしら》まで残らずそこに参集して、氏神境内の宮林《みやばやし》から樅《もみ》の木一本を元伐《もとぎ》りにする相談をした。
「一本じゃ、伊勢木も足りまい。」
 と吉左衛門が言い出すと、金兵衛はすかさず答えた。
「や、そいつはわたしに寄付させてもらいましょう。ちょうどよい樅《もみ》が一本、吾家《うち》の林にもありますから。」
 元伐《もとぎ》りにした二本の樅には注連《しめ》なぞが掛けられて、その前で禰宜《ねぎ》の祈祷《きとう》があった。この清浄な神木が日暮れ方になってようやく鳥居の前に引き出されると、左右に分かれた村民は声を揚げ、太い綱でそれを
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