十俵からの増収があった。木曾も妻籠から先は、それらの自然の恵みを受くべき田畠《たはた》とてもすくない。中三宿となると、次第に谷の地勢も狭《せば》まって、わずかの河岸《かし》の傾斜、わずかの崖《がけ》の上の土地でも、それを耕地にあててある。山のなかに成長して樹木も半分友だちのような三人には、そこの河岸に莢《さや》をたれた皀莢《さいかち》の樹《き》がある、ここの崖の上に枝の細い棗《なつめ》の樹があると、指《さ》して言うことができた。土地の人たちが路傍に設けた意匠もまたしおらしい。あるところの石垣《いしがき》の上は彼らの花壇であり、あるところの崖の下は二十三夜もしくは馬頭観音《ばとうかんのん》なぞの祭壇である。
 この谷の中だ。木曾地方の人たちが山や林を力にしているのに不思議はない。当時の木曾山一帯を支配するものは尾張藩《おわりはん》で、巣山《すやま》、留山《とめやま》、明山《あきやま》の区域を設け、そのうち明山のみは自由林であっても、許可なしに村民が五木を伐採することは禁じられてあった。言って見れば、檜木《ひのき》、椹《さわら》、明檜《あすひ》、高野槇《こうやまき》、※[#「木+鑞のつくり
前へ 次へ
全473ページ中154ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング