和尚さまが禅僧らしい質素な法衣に茶色の袈裟《けさ》がけで、わざわざ見送りに来たのも半蔵の心をひいた。
「夜道は気をつけるがいいぜ。なるべく朝は早く立つようにして、日の暮れるまでには次ぎの宿《しゅく》へ着くようにするがいいぜ。」
 この父の言葉を聞いて、間もなく半蔵は佐吉と共に峠の上から離れて行った。この山地には俗に「道知らせ」と呼んで、螢《ほたる》の形したやさしい虫があるが、その青と紅のあざやかな色の背を見せたやつまでが案内顔に、街道を踏んで行く半蔵たちの行く先に飛んだ。


 隣宿|妻籠《つまご》の本陣には寿平次がこの二人《ふたり》を待っていた。その日は半蔵も妻籠泊まりときめて、一夜をお民の生家《さと》に送って行くことにした。寿平次を見るたびに半蔵の感ずることは、よくその若さで本陣|庄屋《しょうや》問屋《といや》三役の事務を処理して行くことであった。寿平次の部屋《へや》には、先代からつけて来たという覚え帳がある。諸大名宿泊のおりの人数、旅籠賃《はたごちん》から、入り用の風呂《ふろ》何本、火鉢《ひばち》何個、燭台《しょくだい》何本というようなことまで、事こまかに記《しる》しつけてある。
前へ 次へ
全473ページ中149ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング