も出かけられて。まあ、女の身になって見さっせれ。なかなかそんなわけにいかすか。おれも山の中にいて、江戸の夢でも見ずかい。この辺鄙《へんぴ》な田舎には、お前さま、せめて一生のうちに名古屋でも見て死にたいなんて、そんなことを言う女もあるに。」


 江戸をさして出発する前に、半蔵は平田入門のことを一応は父にことわって行こうとした。平田篤胤はすでに故人であったから、半蔵が入門は先師没後の門人に加わることであった。それだけでも彼は一層自分をはっきりさせることであり、また同門の人たちと交際する上にも多くの便宜があろうと考えたからで。
 父、吉左衛門《きちざえもん》はもう長いことこの忰《せがれ》を見まもって来て、行く行く馬籠の本陣を継ぐべき半蔵が寝食を忘れるばかりに平田派の学問に心を傾けて行くのを案じないではなかった。しかし吉左衛門は根が好学の人で、自分で学問の足りないのを嘆いているくらいだから、
「お前の学問好きも、そこまで来たか。」
 と言わないばかりに半蔵の顔をながめて、結局子の願いを容《い》れた。
 当時平田派の熱心な門人は全国を通じて数百人に上ると言われ、南信から東|美濃《みの》の地方へ
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