をも見たい。自分は長いことこもり暮らした山の中を出て、初めて旅に上ろうとしている。」
 こういう意味の手紙を半蔵は中津川にある親しい学友の蜂谷香蔵あてに書いた。
「君によろこんでもらいたいことがある。自分はこの旅で、かねての平田入門の志を果たそうとしている。最近に自分は佐藤信淵《さとうのぶひろ》の著書を手に入れて、あのすぐれた農学者が平田|大人《うし》と同郷の人であることを知り、また、いかに大人《うし》の深い感化を受けた人であるかをも知った。本居《もとおり》、平田諸大人の国学ほど世に誤解されているものはない。古代の人に見るようなあの直《す》ぐな心は、もう一度この世に求められないものか。どうかして自分らはあの出発点に帰りたい。そこからもう一度この世を見直したい。」
 という意味をも書き添えた。
 馬籠《まごめ》のような狭い片田舎《かたいなか》では半蔵の江戸行きのうわさが村のすみまでもすぐに知れ渡った。半蔵が幼少な時分からのことを知っていて、遠い旅を案じてくれる乳母《うば》のおふきのような婆《ばあ》さんもある。おふきは半蔵を見に来た時に言った。
「半蔵さま、男はそれでもいいぞなし。どこへで
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