ん、旅に出る前にもう一度ぐらいあえましょうか。」
「いろいろな打ち合わせは手紙でもできましょう。」
「なんだかわたしは夢のような気がする。」
 こんな言葉をかわして置いて、その日の午後に寿平次は妻籠をさして帰って行った。
 長いこと見聞の寡《すくな》いことを嘆き、自分の固陋《ころう》を嘆いていた半蔵の若い生命《いのち》も、ようやく一歩《ひとあし》踏み出して見る機会をとらえた。その時になって見ると、江戸は大地震後一年目の復興最中である。そこには国学者としての平田|鉄胤《かねたね》もいる。鉄胤は篤胤大人《あつたねうし》の相続者である。かねて平田篤胤没後の門人に加わることを志していた半蔵には、これは得がたい機会でもある。のみならず、横須賀海岸の公郷村《くごうむら》とは、黒船上陸の地点から遠くないところとも聞く。半蔵の胸はおどった。
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     第三章

       一

「蜂谷《はちや》君、近いうちに、自分は江戸から相州三浦方面へかけて出発する。妻の兄、妻籠《つまご》本陣の寿平次と同行する。この旅は横須賀在の公郷村《くごうむら》に遠い先祖の遺族を訪《たず》ねるためであるが、江戸
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