られることになったのも、その時だ。その中の十人は金兵衛が預かった。馬籠《まごめ》の宿役人や組頭《くみがしら》としてこれが見ていられるものでもない。福島の役人たちが湯舟沢村の方へ引き揚げて行った後で、「お叱り」のものの赦免せられるようにと、不幸な村民のために一同お日待《ひまち》をつとめた。その時のお札は一枚ずつ村じゅうへ配当した。
この出来事があってから二十日《はつか》ばかり過ぎに、「お叱り」のものの残らず手錠を免ぜられる日がようやく来た。福島からは三人の役人が出張してそれを伝えた。
手錠を解かれた小前《こまえ》のものの一人《ひとり》は、役人の前に進み出て、おずおずとした調子で言った。
「畏《おそ》れながら申し上げます。木曾は御承知のとおりな山の中でございます。こんな田畑もすくないような土地でございます。お役人様の前ですが、山の林にでもすがるよりほかに、わたくしどもの立つ瀬はございません。」
四
新茶屋に、馬籠の宿の一番西のはずれのところに、その路傍《みちばた》に芭蕉《ばしょう》の句塚《くづか》の建てられたころは、なんと言っても徳川の代《よ》はまだ平和であった。
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