らずじまいに、その年の四月にはすでに万福寺の墓地の方に葬られた人であった。
「あなた、遠くへ行かないでくださいよ。皆と一緒にいてくださいよ。」
 とおまんが吉左衛門のことを心配するそばには、産後三十日あまりにしかならないお民が青ざめた顔をしていた。また揺れて来たと言うたびに、下男の佐吉も二人《ふたり》の下女までも、互いに顔を見合わせて目の色を変えた。
 太い青竹の根を張った藪《やぶ》の中で、半蔵は帯を締め直した。父と連れだってそこいらへ見回りに出たころは、本陣の界隈《かいわい》に住むもので家の中にいるものはほとんどなかった。隣家のことも気にかかって、吉左衛門親子が見舞いに行くと、伏見屋でもお玉や鶴松なぞは舞台下の日刈小屋《ひがりごや》の方に立ち退《の》いたあとだった。さすがに金兵衛はおちついたもので、その不安の中でも下男の一人を相手に家に残って、京都から来た飛脚に駄賃《だちん》を払ったり、判取り帳をつけたりしていた。
「どうも今年《ことし》は正月の元日から、いやに陽気が暖かで、おかしいおかしいと思っていましたよ。」
 それを吉左衛門が言い出すと、金兵衛も想《おも》い当たるように、
「そ
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