うちから、金兵衛の心は舞台の楽屋の方へも、桟敷《さじき》の方へも行った。だんだら模様の烏帽子《えぼし》をかぶり、三番叟《さんばそう》らしい寛濶《かんかつ》な狂言の衣裳をつけ、鈴を手にした甥《おい》の姿が、彼の目に見えて来た。戻《もど》り籠《かご》に出る籠かき姿の子が杖《つえ》でもついて花道にかかる時に、桟敷の方から起こる喝采《かっさい》は、必ず「伏見屋」と来る。そんな見物の掛け声まで、彼の耳の底に聞こえて来た。
「ほんとに、おれはこんなばかな男だ。」
 金兵衛はそれを自分で自分に言って、束にして掛けた杉《すぎ》の葉のしるしも酒屋らしい伏見屋の門口を、出たりはいったりした。


 三日続いた狂言はかなりの評判をとった。たとい村芝居でも仮借《かしゃく》はしなかったほど藩の検閲は厳重で、風俗壊乱、その他の取り締まりにと木曾福島の役所の方から来た見届け奉行《ぶぎょう》なぞも、狂言の成功を祝って引き取って行ったくらいであった。
 いたるところの囲炉裏《いろり》ばたでは、しばらくこの狂言の話で持ち切った。何しろ一年に一度の楽しい祭りのことで、顔だちから仕草《しぐさ》から衣裳まで三拍子そろった仙十郎
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