は埋《うず》められそうになった。
 そのうちに、名古屋の方へ頼んで置いた狂言|衣裳《いしょう》の荷物が馬で二|駄《だ》も村に届いた。舞台へ出るけいこ最中の若者らは他村に敗《ひけ》を取るまいとして、振付《ふりつけ》は飯田の梅蔵に、唄《うた》は名古屋の治兵衛《じへえ》に、三味線《しゃみせん》は中村屋|鍵蔵《かぎぞう》に、それぞれ依頼する手はずをさだめた。祭りの楽しさはそれを迎えた当日ばかりでなく、それを迎えるまでの日に深い。浄瑠璃方《じょうるりかた》がすでに村へ入り込んだとか、化粧方が名古屋へ飛んで行ったとか、そういううわさが伝わるだけでも、村の娘たちの胸にはよろこびがわいた。こうなると、金兵衛はじっとしていられない。毎日のように舞台へ詰めて、桟敷《さじき》をかける世話までした。伏見屋の方でも鶴松に初舞台を踏ませるとあって、お玉の心づかいは一通りでなかった。中津川からは親戚《しんせき》の女まで来て衣裳ごしらえを手伝った。
「きょうもよいお天気だ。」
 そう言って、金兵衛が伏見屋の店先から街道の空を仰いだころは、旧暦九月の二十四日を迎えた。例年祭礼狂言の初日だ。朝早くから金兵衛は髪結いの直次
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