の家の客となって来るようでなくては、どうしても二人には山家のような気がしなかった。
その年の祭礼狂言をさかんにするということが、やがて馬籠の本陣で協議された。組頭庄兵衛もこれには賛成した。ちょうど村では金兵衛の胆煎《きもい》りで、前の年の十月あたりに新築の舞台普請をほぼ終わっていた。付近の山の中に適当な普請木《ふしんぎ》を求めることから、舞台の棟上《むなあ》げ、投げ餅《もち》の世話まで、多くは金兵衛の骨折りでできた。その舞台は万福寺の境内に近い裏山の方に造られて、もはや楽しい秋の祭りの日を待つばかりになっていた。
この地方で祭礼狂言を興行する歴史も古い。それだけ土地の人たちが歌舞伎《かぶき》そのものに寄せている興味も深かった。当時の南信から濃尾《のうび》地方へかけて、演劇の最も発達した中心地は、近くは飯田《いいだ》、遠くは名古屋であって、市川海老蔵《いちかわえびぞう》のような江戸の役者が飯田の舞台を踏んだこともめずらしくない。それを聞くたびに、この山の中に住む好劇家連は女中衆まで引き連れて、大平峠《おおだいらとうげ》を越しても見に行った。あの蘭《あららぎ》、広瀬あたりから伊那の谷の
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