、半蔵はその言葉を繰り返して見た。遠い江戸湾のかなたには、実に八、九|艘《そう》もの黒船が来てあの沖合いに掛かっていることを胸に描いて見た。その心から、彼は尾張藩主の出府も容易でないと思った。


 木曾《きそ》寄せの人足七百三十人、伊那《いな》の助郷《すけごう》千七百七十人、この人数合わせて二千五百人を動かすほどの大通行が、三月四日に馬籠の宿を経て江戸表へ下ることになった。宿場に集まった馬の群れだけでも百八十匹、馬方百八十人にも上った。
 松雲和尚は万福寺の方にいて、長いこと留守にした方丈にもろくろく落ちつかないうちに、三月四日を迎えた。前の晩に来たはげしい雷鳴もおさまり、夜中ごろから空も晴れて、人馬の継ぎ立てはその日の明け方から始まった。
 尾張藩主が出府と聞いて、寺では徒弟僧《とていそう》も寺男もじっとしていない。大領主のさかんな通行を見ようとして裏山越しに近在から入り込んで来る人たちは、門前の石段の下に小径《こみち》の続いている墓地の間を急ぎ足に通る。
「お前たちも行って殿様をお迎えするがいい。」
 と松雲は二人の弟子《でし》にも寺男にも言った。
 旅にある日の松雲はかなりわびしい思いをして来た。京都の宿で患《わずら》いついた時は、書きにくい手紙を伏見屋の金兵衛にあてて、余分な路銀の心配までかけたこともある。もし無事に行脚《あんぎゃ》の修業を終わる日が来たら、村のためにも役に立とう、貧しい百姓の子供をも教えよう、そう考えて旅から帰って来た。周囲にある空気のあわただしさ。この動揺の中に僧侶《そうりょ》の身をうけて、どうして彼は村の幼く貧しいものを育てて行こうかとさえ思った。
「和尚さま。」
 と声をかけて裏口からはいって来たのは、日ごろ、寺へ出入りの洗濯婆《せんたくばあ》さんだ。腰に鎌《かま》をさし、※[#「くさかんむり/稾」、78−4]草履《わらぞうり》をはいて、男のような頑丈《がんじょう》な手をしている山家の女だ。
「お前さまはお留守居かなし。」
「そうさ。」
「おれは今まで畠《はたけ》にいたが、餅草《もちぐさ》どころじゃあらすか。きょうのお通りは正五《しょういつ》つ時《どき》だげな。殿様は下町の笹屋《ささや》の前まで馬に騎《の》っておいでで、それから御本陣までお歩行《ひろい》だげな。お前さまも出て見さっせれや。」
「まあ、わたしはお留守居だ。」
「こんな日にお寺に引っ込んでいるなんて、そんなお前さまのような人があらすか。」
「そう言うものじゃないよ。用事がなければ、親類へも行かない。それが出家の身なんだもの。わたしはお寺の番人だ。それでたくさんだ。」
 婆さんは鉄漿《おはぐろ》のはげかかった半分黒い歯を見せて笑い出した。庭の土間での立ち話もそこそこにして、また裏口から出て行った。
 やがて正五つ時も近づくころになると、寺の門前を急ぐ人の足音も絶えた。物音一つしなかった。何もかも鳴りをひそめて、静まりかえったようになった。ちょうど例年より早くめずらしい陽気は谷間に多い花の蕾《つぼみ》をふくらませている。馬に騎《の》りかえて新茶屋あたりから進んで来る尾張藩主が木曾路の山ざくらのかげに旅の身を見つけようというころだ。松雲は戸から外へ出ないまでも、街道の両側に土下座する村民の間を縫ってお先案内をうけたまわる問屋の九太夫をも、まのあたり藩主を見ることを光栄としてありがたい仕合わせだとささやき合っているような宿役人仲間をも、うやうやしく大領主を自宅に迎えようとする本陣親子をも、ありありと想像で見ることができた。
 方丈もしんかんとしていた。まるでそこいらはからっぽのようになっていた。松雲はただ一人《ひとり》黙然《もくねん》として、古い壁にかかる達磨《だるま》の画像の前にすわりつづけた。

       三

 なんとなく雲脚《くもあし》の早さを思わせるような諸大名諸公役の往来は、それからも続きに続いた。尾張藩主の通行ほど大がかりではないまでも、土州《としゅう》、雲州《うんしゅう》、讃州《さんしゅう》などの諸大名は西から。長崎奉行|永井岩之丞《ながいいわのじょう》の一行は東から。五月の半ばには、八百人の同勢を引き連れた肥後《ひご》の家老|長岡監物《ながおかけんもつ》の一行が江戸の方から上って来て、いずれも鉄砲持参で、一人ずつ腰弁当でこの街道を通った。
 仙洞御所《せんとうごしょ》の出火のうわさ、その火は西陣《にしじん》までの町通りを焼き尽くして天明年度の大火よりも大変だといううわさが、京都方面から伝わって来たのもそのころだ。
 この息苦しさの中で、年若な半蔵なぞが何物かを求めてやまないのにひきかえ、村の長老たちの願いとしていることは、結局現状の維持であった。黒船騒ぎ以来、諸大名の往来は激しく、伊那《いな》あたりから入り込んで来る
前へ 次へ
全119ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング