な時世じゃない。」
と考えた。
そこへお民が来た。お民はまだ十八の春を迎えたばかり、妻籠《つまご》本陣への里帰りを済ましたころから眉《まゆ》を剃《そ》り落としていて、いくらか顔のかたちはちがったが、動作は一層生き生きとして来た。
「あなたの好きなねぶ茶をいれて来ました。あなたはまた、何をそんなに考えておいでなさるの。」
とお民がきいた。ねぶ茶とは山家で手造りにする飲料である。
「おれか。おれは何も考えていない。ただ、こうしてぼんやりしている。お前とおれと、二人一緒になってから百日の余にもなるが――そうだ、百日どころじゃないや、もう四か月にもなるんだ――その間、おれは何をしていたかと思うようだ。阿爺《おやじ》の好きな煙草《たばこ》の葉を刻んだことと、祖母《おばあ》さんの看病をしたことと、まあそれくらいのものだ。」
半蔵は新婚のよろこびに酔ってばかりもいなかった。学業の怠りを嘆くようにして、それをお民に言って見せた。
「わたしはお節句のことを話そうと思うのに、あなたはそんなに考えてばかりいるんですもの。だって、もう三月は来てるじゃありませんか。この御通行が済むまでは、どうすることもできないじゃありませんか。」
新婚のそもそもは、娘の昔に別れを告げたばかりのお民にとって、むしろ苦痛でさえもあった。それが新しいよろこびに変わって来たころから、とかく店座敷を離れかねている。いつのまにか半蔵の膝《ひざ》はお民の方へ向いた。彼はまるで尻餅《しりもち》でもついたように、後ろ手を畳の上に落として、それで身をささえながら、妻籠から持って来たという記念の雛《ひな》人形の話なぞをするお民の方をながめた。手織り縞《じま》でこそあれ、当時の風俗のように割合に長くひいた裾《すそ》の着物は彼女に似合って見える。剃《そ》り落とした眉《まゆ》のあとも、青々として女らしい。半蔵の心をよろこばせたのは、ことにお民の手だ。この雪に燃えているようなその娘らしい手だ。彼は妻と二人ぎりでいて、その手に見入るのを楽しみに思った。
実に突然に、お民は夫のそばですすり泣きを始めた。
「ほら、あなたはよくそう言うじゃありませんか。わたしに学問の話なぞをしても、ちっともわけがわからんなんて。そりゃ、あのお母《っか》さん(姑《しゅうとめ》、おまん)のまねはわたしにはできない。今まで、妻籠の方で、だれもわたしに教えてくれる人はなかったんですもの。」
「お前は機《はた》でも織っていてくれれば、それでいいよ。」
お民は容易にすすり泣きをやめなかった。半蔵は思いがけない涙を聞きつけたというふうに、そばへ寄って妻をいたわろうとすると、
「教えて。」
と言いながら、しばらくお民は夫の膝《ひざ》に顔をうずめていた。
ちょうど本陣では隠居が病みついているころであった。あの婆《ばあ》さんももう老衰の極度にあった。
「おい、お民、お前は祖母《おばあ》さんをよく看《み》てくれよ。」
と言って、やがて半蔵は隠居の臥《ね》ている部屋《へや》の方へお民を送り、自分でも気を取り直した。
いつでも半蔵が心のさみしいおりには、日ごろ慕っている平田|篤胤《あつたね》の著書を取り出して見るのを癖のようにしていた。『霊《たま》の真柱《まはしら》』、『玉だすき』、それから講本の『古道大意』なぞは読んでも読んでも飽きるということを知らなかった。大判の薄藍色《うすあいいろ》の表紙から、必ず古紫の糸で綴《と》じてある本の装幀《そうてい》までが、彼には好ましく思われた。『静《しず》の岩屋《いわや》』、『西籍概論《さいせきがいろん》』の筆記録から、三百部を限りとして絶版になった『毀誉《きよ》相半ばする書』のような気吹《いぶき》の舎《や》の深い消息までも、不便な山の中で手に入れているほどの熱心さだ。平田篤胤は天保《てんぽう》十四年に没している故人で、この黒船騒ぎなぞをもとより知りようもない。あれほどの強さに自国の学問と言語の独立を主張した人が、嘉永《かえい》安政の代に生きるとしたら――すくなくもあの先輩はどうするだろうとは、半蔵のような青年の思いを潜めなければならないことであった。
新しい機運は動きつつあった。全く気質を相異《あいこと》にし、全く傾向を相異にするようなものが、ほとんど同時に踏み出そうとしていた。長州《ちょうしゅう》萩《はぎ》の人、吉田松陰《よしだしょういん》は当時の厳禁たる異国への密航を企てて失敗し、信州|松代《まつしろ》の人、佐久間象山《さくましょうざん》はその件に連座して獄に下ったとのうわさすらある。美濃の大垣《おおがき》あたりに生まれた青年で、異国の学問に志し、遠く長崎の方へ出発したという人の話なぞも、決してめずらしいことではなくなった。
「黒船。」
雪で明るい部屋《へや》の障子に近く行って
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