えなさん》を最高の峰としてこの辺一帯の村々を支配して立つような幾つかの山嶽《さんがく》も、その位置からは隠れてよく見えなかったが、遠くかすかに鳴きかわす鶏の声を谷の向こうに聞きつけることはできた。まだ本堂の前の柊《ひいらぎ》も暗い。その時、朝の空気の静かさを破って、澄んだ大鐘の音が起こった。力をこめた松雲の撞《つ》き鳴らす音だ。その音は谷から谷を伝い、畠《はたけ》から畠を匍《は》って、まだ動きはじめない村の水車小屋の方へも、半分眠っているような馬小屋の方へもひびけて行った。

       二

 ある朝、半蔵は妻のそばに目をさまして、街道を通る人馬の物音を聞きつけた。妻のお民は、と見ると、まだ娘のような顔をして、寝心地《ねごこち》のよい春の暁を寝惜しんでいた。半蔵は妻の目をさまさせまいとするように、自分ひとり起き出して、新婚後|二人《ふたり》の居間となっている本陣の店座敷の戸を明けて見た。
 旧暦三月はじめのめずらしい雪が戸の外へ来た。暮れから例年にない暖かさだと言われたのが、三月を迎えてかえってその雪を見た。表庭の塀《へい》の外は街道に接していて、雪を踏んで行く人馬の足音がする。半蔵は耳を澄ましながらその物音を聞いて、かねてうわさのあった尾張藩主の江戸出府がいよいよ実現されることを知った。
「尾州の御先荷《おさきに》がもうやって来た。」
 と言って見た。
 宿継ぎ差立《さした》てについて、尾張藩から送られて来た駄賃金《だちんがね》が馬籠の宿だけでも金四十一両に上った。駄賃金は年寄役金兵衛が預かったが、その金高を聞いただけでも今度の通行のかなり大げさなものであることを想像させる。半蔵はうすうす父からその話を聞いて知っていたので、部屋《へや》にじっとしていられなかった。台所に行って顔を洗うとすぐ雪の降る中を屋外《そと》へ出て見ると、会所では朝早くから継立《つぎた》てが始まる。あとからあとからと坂路《さかみち》を上って来る人足たちの後ろには、鈴の音に歩調を合わせるような荷馬の群れが続く。朝のことで、馬の鼻息は白い。時には勇ましいいななきの声さえ起こる。村の宿役人仲間でも一番先に家を出て、雪の中を奔走していたのは問屋の九太夫であった。
 前の年の六月に江戸湾を驚かしたアメリカの異国船は、また正月からあの沖合いにかかっているころで、今度は四隻の軍艦を八、九隻に増して来て、武力にも訴えかねまじき勢いで、幕府に開港を迫っているとのうわさすら伝わっている。全国の諸大名が江戸城に集まって、交易を許すか許すまいかの大評定《だいひょうじょう》も始まろうとしているという。半蔵はその年の正月二十五日に、尾州から江戸送りの大筒《おおづつ》の大砲や、軍用の長持が二十二|棹《さお》もこの街道に続いたことを思い出し、一人持ちの荷物だけでも二十一|荷《か》もあったことを思い出して、目の前を通る人足や荷馬の群れをながめていた。
 半蔵が家の方へ戻《もど》って行って見ると、吉左衛門はゆっくりしたもので、炉ばたで朝茶をやっていた。その時、半蔵はきいて見た。
「お父《とっ》さん、けさ着いたのはみんな尾州の荷物でしょう。」
「そうさ。」
「この荷物は幾日ぐらい続きましょう。」
「さあ、三日も続くかな。この前に唐人船《とうじんぶね》の来た時は、上のものも下のものも大あわてさ。今度は戦争にはなるまいよ。何にしても尾州の殿様も御苦労さまだ。」
 馬籠の本陣親子が尾張《おわり》藩主に特別の好意を寄せていたのは、ただあの殿様が木曾谷《きそだに》や尾張地方の大領主であるというばかりではない。吉左衛門には、時に名古屋まで出張するおりなぞには藩主のお目通りを許されるほどの親しみがあった。半蔵は半蔵で、『神祇《じんぎ》宝典』や『類聚日本紀《るいじゅうにほんぎ》』などをえらんだ源敬公以来の尾張藩主であるということが、彼の心をよろこばせたのであった。彼はあの源敬公の仕事を水戸《みと》の義公《ぎこう》に結びつけて想像し、『大日本史』の大業を成就したのもそういう義公であり、僧の契沖《けいちゅう》をして『万葉|代匠記《だいしょうき》』をえらばしめたのもこれまた同じ人であることを想像し、その想像を儒仏の道がまだこの国に渡って来ない以前のまじりけのない時代にまでよく持って行った。彼が自分の領主を思う心は、当時の水戸の青年がその領主を思う心に似ていた。
 その日、半蔵は店座敷にこもって、この深い山の中に住むさみしさの前に頭をたれた。障子の外には、塀《へい》に近い松の枝をすべる雪の音がする。それが恐ろしい響きを立てて庭の上に落ちる。街道から聞こえて来る人馬の足音も、絶えたかと思うとまた続いた。
「こんな山の中にばかり引っ込んでいると、なんだかおれは気でも違いそうだ。みんな、のんきなことを言ってるが、そん
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