まだ三十そこそこの年配にしかならない。そういう彼よりは六つか七つも年長《としうえ》にあたるくらいの青年の僧侶《そうりょ》だ。とりあえず峠の茶屋に足を休めるとあって、京都の旅の話なぞがぽつぽつ松雲の口から出た。京都に十七日、名古屋に六日、それから美濃路回りで三日目に手賀野村の松源寺に一泊――それを松雲は持ち前の禅僧らしい調子で話し聞かせた。ものの小半時《こはんとき》も半蔵が一緒にいるうちに、とてもこの人を憎むことのできないような善良な感じのする心の持ち主を彼は自分のそばに見つけた。
やがて一同は馬籠の本宿をさして新茶屋を離れることになった。途中で松雲は庄兵衛を顧みて、
「ほ。見ちがえるように道路がよくなっていますな。」
「この春、尾州《びしゅう》の殿様が江戸へ御出府だげな。お前さまはまだ何も御存じなしか。」
「その話はわたしも聞いて来ましたよ。」
「新茶屋の境から峠の峰まで道普請《みちぶしん》よなし。尾州からはもう宿割《しゅくわり》の役人まで見えていますぞ。道造りの見分《けんぶん》、見分で、みんないそがしい思いをしましたに。」
うわさのある名古屋の藩主(尾張|慶勝《よしかつ》)の江戸出府は三月のはじめに迫っていた。来たる日の通行の混雑を思わせるような街道を踏んで、一同石屋の坂あたりまで帰って行くと、村の宿役人仲間がそこに待ち受けるのにあった。問屋《といや》の九太夫《くだゆう》をはじめ、桝田屋《ますだや》の儀助、蓬莱屋《ほうらいや》の新七、梅屋の与次衛門《よじえもん》、いずれも裃《かみしも》着用に雨傘《あまがさ》をさしかけて松雲の一行を迎えた。
当時の慣例として、新住職が村へ帰り着くところは寺の山門ではなくて、まず本陣の玄関だ。出家の身としてこんな歓迎を受けることはあながち松雲の本意ではなかったけれども、万事は半蔵が父の計らいに任せた。付き添いとして来た中津川の老和尚の注意もあって、松雲が装束《しょうぞく》を着かえたのも本陣の一室であった。乗り物、先箱《さきばこ》、台傘《だいがさ》で、この新住職が吉左衛門《きちざえもん》の家を出ようとすると、それを見ようとする村の子供たちはぞろぞろ寺の道までついて来た。
万福寺は小高い山の上にある。門前の墓地に茂る杉《すぎ》の木立《こだ》ちの間を通して、傾斜を成した地勢に並び続く民家の板屋根を望むことのできるような位置にある。松雲が寺への帰参は、沓《くつ》ばきで久しぶりの山門をくぐり、それから方丈《ほうじょう》へ通って、一礼座了《いちれいざりょう》で式が済んだ。わざとばかりの饂飩振舞《うどんぶるまい》のあとには、隣村の寺方《てらかた》、村の宿役人仲間、それに手伝いの人たちなぞもそれぞれ引き取って帰って行った。
「和尚さま。」
と言って松雲のそばへ寄ったのは、長いことここに身を寄せている寺男だ。その寺男は主人が留守中のことを思い出し顔に、
「よっぽど伏見屋の金兵衛さんには、お礼を言わっせるがいい。お前さまがお留守の間にもよく見舞いにおいでて、本堂の廊下には大きな新しい太鼓が掛かったし、すっかり屋根の葺《ふ》き替えもできました。あの萱《かや》だけでも、お前さま、五百二十|把《ぱ》からかかりましたよ。まあ、おれは何からお話していいか。村へ大風の来た年には鐘つき堂が倒れる。そのたびに、金兵衛さんのお骨折りも一通りじゃあらすか。」
松雲はうなずいた。
諸国を遍歴して来た目でこの境内を見ると、これが松雲には馬籠の万福寺であったかと思われるほど小さい。長い留守中は、ここへ来て世話をしてくれた隣村の隠居和尚任せで、なんとなく寺も荒れて見える。方丈には、あの隠居和尚が六年もながめ暮らしたような古い壁もあって、そこには達磨《だるま》の画像が帰参の新住職を迎え顔に掛かっていた。
「寺に大地小地なく、住持《じゅうじ》に大地小地あり。」
この言葉が松雲を励ました。
松雲は周囲を見回した。彼には心にかかるかずかずのことがあった。当時の戸籍簿とも言うべき宗門帳は寺で預かってある。あの帳面もどうなっているか。位牌堂《いはいどう》の整理もどうなっているか。数えて来ると、何から手を着けていいかもわからないほど種々雑多な事が新住職としての彼を待っていた。毎年の献鉢《けんばち》を例とする開山忌《かいざんき》の近づくことも忘れてはならなかった。彼は考えた。ともかくもあすからだ。朝早く身を起こすために何かの目的を立てることだ。それには二人《ふたり》の弟子《でし》や寺男任せでなしに、まず自分で庭の鐘楼に出て、十八声の大鐘を撞《つ》くことだと考えた。
翌朝は雨もあがった。松雲は夜の引き明けに床を離れて、山から来る冷たい清水《しみず》に顔を洗った。法鼓《ほうこ》、朝課《ちょうか》はあと回しとして、まず鐘楼の方へ行った。恵那山《
前へ
次へ
全119ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング