》の名代《みょうだい》という改まった顔つきだ。
「お師匠さま。」
「君も来たのかい。御覧、翁塚のよくなったこと。あれは君のお父《とっ》さんの建てたんだよ。」
「わたしは覚えがない。」
 半蔵が少年の鶴松を相手にこんな言葉をかわしていると、庄兵衛も思い出したように、
「そうだずら、鶴さまは覚えがあらっせまい。」
 と言い添えた。
 小雨は降ったりやんだりしていた。松雲和尚の一行はなかなか見えそうもないので、半蔵は鶴松を誘って、新茶屋の周囲を歩きに出た。路傍《みちばた》に小高く土を盛り上げ、榎《えのき》を植えて、里程を示すたよりとした築山《つきやま》がある。駅路時代の一里塚だ。その辺は信濃《しなの》と美濃《みの》の国境《くにざかい》にあたる。西よりする木曾路の一番最初の入り口ででもある。
 しばらく半蔵は峠の上にいて、学友の香蔵や景蔵の住む美濃の盆地の方に思いを馳《は》せた。今さら関東関西の諸大名が一大|合戦《かっせん》に運命を決したような関ヶ原の位置を引き合いに出すまでもなく、古くから東西両勢力の相接触する地点と見なされたのも隣の国である。学問に、宗教に、商業に、工芸に、いろいろなものがそこに発達したのに不思議はなかったかもしれない。すくなくもそこに修業時代を送って、そういう進んだ地方の空気の中に僧侶《そうりょ》としてのたましいを鍛えて来た松雲が、半蔵にはうらやましかった。その隣の国に比べると、この山里の方にあるものはすべておそい。あだかも、西から木曾川を伝わって来る春が、両岸に多い欅《けやき》や雑木の芽を誘いながら、一か月もかかって奥へ奥へと進むように。万事がそのとおりおくれていた。
 その時、半蔵は鶴松を顧みて、
「あの山の向こうが中津川《なかつがわ》だよ。美濃はよい国だねえ。」
 と言って見せた。何かにつけて彼は美濃|尾張《おわり》の方の空を恋しく思った。
 もう一度半蔵が鶴松と一緒に茶屋へ引き返して見ると、ちょうど伏見屋の下男がそこへやって来るのにあった。その男は庄兵衛の方を見て言った。
「吾家《うち》の旦那《だんな》はお寺の方でお待ち受けだげな。和尚さまはまだ見えんかなし。」
「おれはさっきから来て待ってるが、なかなか見えんよ。」

「弁当持ちの人足も二人出かけたはずだが。」
「あの衆は、いずれ途中で待ち受けているずらで。」
 半蔵がこの和尚を待ち受ける心は、やがて西から帰って来る人を待ち受ける心であった。彼が家と万福寺との縁故も深い。最初にあの寺を建立《こんりゅう》して万福寺と名づけたのも青山の家の先祖だ。しかし彼は今度帰国する新住職のことを想像し、その人の尊信する宗教のことを想像し、人知れずある予感に打たれずにはいられなかった。早い話が、彼は中津川の宮川寛斎に就《つ》いた弟子《でし》である。寛斎はまた平田《ひらた》派の国学者である。この彼が日ごろ先輩から教えらるることは、暗い中世の否定であった。中世以来学問道徳の権威としてこの国に臨んで来た漢学《からまな》び風《ふう》の因習からも、仏の道で教えるような物の見方からも離れよということであった。それらのものの深い影響を受けない古代の人の心に立ち帰って、もう一度|心寛《こころゆた》かにこの世を見直せということであった。一代の先駆、荷田春満《かだのあずままろ》をはじめ、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、それらの諸大人が受け継ぎ受け継ぎして来た一大反抗の精神はそこから生まれて来ているということであった。彼に言わせると、「物学びするともがら」の道は遠い。もしその道を追い求めて行くとしたら、彼が今待ち受けている人に、その人の信仰に、行く行く反対を見いだすかもしれなかった。
 こんな本陣の子息《むすこ》が待つとも知らずに、松雲の一行は十曲峠の険しい坂路《さかみち》を登って来て、予定の時刻よりおくれて峠の茶屋に着いた。


 松雲は、出迎えの人たちの予想に反して、それほど旅やつれのした様子もなかった。六年の長い月日を行脚《あんぎゃ》の旅に送り、さらに京都本山まで出かけて行って来た人とは見えなかった。一行六、七人のうち、こちらから行った馬籠の人足たちのほかに、中津川からは宗泉寺の老和尚も松雲に付き添って来た。
「これは恐れ入りました。ありがとうございました。」
 と言いながら松雲は笠《かさ》の紐《ひも》をといて、半蔵の前にも、庄兵衛たちの前にもお辞儀をした。
「鶴さんですか。見ちがえるように大きくお成りでしたね。」
 とまた松雲は言って、そこに立つ伏見屋の子息《むすこ》の前にもお辞儀をした。手賀野村からの雨中の旅で、笠《かさ》も草鞋《わらじ》もぬれて来た松雲の道中姿は、まず半蔵の目をひいた。
「この人が万福寺の新住職か。」
 と半蔵は心の中で思わずにはいられなかった。和尚としては年も若い。
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