居だ。このおばあさんもひところよりは健康を持ち直して、食事のたびに隠居所から母屋《もや》へ通《かよ》っていた。
馬籠の本陣は二棟《ふたむね》に分かれて、母屋《もや》、新屋《しんや》より成り立つ。新屋は表門の並びに続いて、すぐ街道と対《むか》い合った位置にある。別に入り口のついた会所(宿役人詰め所)と問屋場の建物がそこにある。石垣《いしがき》の上に高く隣家の伏見屋を見上げるのもその位置からで、大小幾つかの部屋がその裏側に建て増してある。多人数の通行でもある時は客間に当てられるのもそこだ。おまんは雨戸のしまった小さな離れ座敷をお民にさして見せて、そこにも本陣らしい古めかしさがあることを話し聞かせた。ずっと昔からこの家の習慣で、女が見るものを見るころは家族のものからも離れ、ひとりで煮焚《にた》きまでして、そこにこもり暮らすという。
「お民、来てごらん。」
と言いながら、おまんは隠居所の階下《した》にあたる味噌納屋《みそなや》の戸をあけて見せた。味噌、たまり、漬物の桶《おけ》なぞがそこにあった。おまんは土蔵の前の方へお民を連れて行って、金網の張ってある重い戸をあけ、薄暗い二階の上までも見せて回った。おまんの古い長持と、お民の新しい長持とが、そこに置き並べてあった。
土蔵の横手について石段を降りて行ったところには、深い掘り井戸を前に、米倉、木小屋なぞが並んでいる。そこは下男の佐吉の世界だ。佐吉も案内顔に、伏見屋寄りの方の裏木戸を押して見せた。街道と平行した静かな村の裏道がそこに続いていた。古い池のある方に近い木戸をあけて見せた。本陣の稲荷《いなり》の祠《ほこら》が樫《かし》や柊《ひいらぎ》の間に隠れていた。
その晩、家のもの一同は炉ばたに集まった。隠居はじめ、吉左衛門から、佐吉まで一緒になった。隣家の伏見家からは少年の鶴松《つるまつ》も招かれて来て、半蔵の隣にすわった。おふきが炉で焼く御幣餅の香気はあたりに満ちあふれた。
「鶴さん、これが吾家《うち》の嫁ですよ。」
とおまんは隣家の子息《むすこ》にお民を引き合わせて、串差《くしざ》しにした御幣餅をその膳《ぜん》に載せてすすめた。こんがりと狐色《きつねいろ》に焼けた胡桃醤油《くるみだまり》のうまそうなやつは、新夫婦の膳にも上った。吉左衛門夫婦はこの質素な、しかし心のこもった山家料理で、半蔵やお民の前途を祝福した。
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第二章
一
十曲峠《じっきょくとうげ》の上にある新茶屋には出迎えのものが集まった。今度いよいよ京都本山の許しを得、僧|智現《ちげん》の名も松雲《しょううん》と改めて、馬籠《まごめ》万福寺の跡を継ごうとする新住職がある。組頭《くみがしら》笹屋《ささや》の庄兵衛《しょうべえ》はじめ、五人組仲間、その他のものが新茶屋に集まったのは、この人の帰国を迎えるためであった。
山里へは旧暦二月末の雨の来るころで、年も安政《あんせい》元年と改まった。一同が待ち受けている和尚《おしょう》は、前の晩のうちに美濃《みの》手賀野《てがの》村の松源寺《しょうげんじ》までは帰って来ているはずで、村からはその朝早く五人組の一人《ひとり》を発《た》たせ、人足も二人《ふたり》つけて松源寺まで迎えに出してある。そろそろあの人たちも帰って来ていいころだった。
「きょうは御苦労さま。」
出迎えの人たちに声をかけて、本陣の半蔵もそこへ一緒になった。半蔵は父吉左衛門の名代《みょうだい》として、小雨の降る中をやって来た。
こうした出迎えにも、古い格式のまだ崩《くず》れずにあった当時には、だれとだれはどこまでというようなことをやかましく言ったものだ。たとえば、村の宿役人仲間は馬籠の石屋の坂あたりまでとか、五人組仲間は宿はずれの新茶屋までとかいうふうに。しかし半蔵はそんなことに頓着《とんちゃく》しない男だ。のみならず、彼はこうした場処に来て腰掛けるのが好きで、ここへ来て足を休めて行く旅人、馬をつなぐ馬方、または土足のまま茶屋の囲炉裏《いろり》ばたに踏ん込《ご》んで木曾風《きそふう》な「めんぱ」(木製|割籠《わりご》)を取り出す人足なぞの話にまで耳を傾けるのを楽しみにした。
馬籠の百姓総代とも言うべき組頭庄兵衛は茶屋を出たりはいったりして、和尚の一行を待ち受けたが、やがてまた仲間のもののそばへ来て腰掛けた。御休処《おやすみどころ》とした古い看板や、あるものは青くあるものは茶色に諸|講中《こうじゅう》のしるしを染め出した下げ札などの掛かった茶屋の軒下から、往来一つ隔てて向こうに翁塚《おきなづか》が見える。芭蕉《ばしょう》の句碑もその日の雨にぬれて黒い。
間もなく、半蔵のあとを追って、伏見屋の鶴松《つるまつ》が馬籠の宿《しゅく》の方からやって来た。鶴松も父|金兵衛《きんべえ
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